草日誌

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2025年2月28日

ソラノマド|高山なおみ 
枝束

 
 
| 枝束 |
 
 窓辺から少し離れたところに、枝束がいけてある。六甲の冬は海がよく光るので、いつもだったら外を眺めながら朝ごはんを食べるのだけど、このところ私は、海ではなく枝ばかり見ている。枝束と呼んでいるのは、うちにやってきたときにはまだ花が咲く前の枯れ木みたいな枝だったから。

 この枝束は、年が明けてしばらくたったころ、京都でトークイベントを開いた日にある庭師の方からいただいた。託されたご友人が、「庭の花だそうです」と手渡してくれた。

 帰り着くとすぐ、うちにあるいちばん大きなガラスの花ビンを出してきていけた。ユキヤナギの白い花が少しだけ咲いている枝と、産毛に包まれた茶色い小さな蕾が集まった枝、小梅の種みたいなぷっくりとした蕾の枝。添えられた手紙には、「遠くないいつの日か、花ビンのなかで花を咲かせたり、葉を広げます。ゆっくり静かに。あたたかな部屋で、少し早い春をみつめていただけたらうれしいです」とあった。
 ユキヤナギのほかは、何の花が咲くのかわからない。

 植物を育てるのが得意ではない私。それでも翌朝から腰を曲げ、目を近づけ、観察する日々がはじまった。肌寒い空気のなか、ヨーグルトのかかった酸っぱいリンゴをしゃくしゃくと噛みながら、枝先のかすかな変化をみつけるのがうれしかった。

 ユキヤナギはすぐに葉芽を増やし、花も順調につけていった。茶色い小さな蕾のひとつが割れ、なかから濃いピンクがのぞいているのをみつけた朝は、どきっとした。数日後、龍の舌のような紅い花弁がひょろりと現れ、次の次の日には花火みたいに広がった。インターネットで調べてみたら、マンサクだとわかった。心躍らせ、庭師の彼女に報告のメッセージを送った。マンサクというのは、「まんず咲く」という意味があるのだそうだ。梅よりも、桜よりも、まずはじめに咲いて、春の訪れを知らせる花。

 ふだん、外出が続くことなどめったにないのに、仙台と盛岡でもトークイベントがあり、やむおえず留守をすることになった。水を替え、直射日光の当たらない場所を探し、「行ってきます」と声をかけた。「植物には風がとても大事。話しかけるとよく育つというのは半分本当で、話すことによって起こる風を受け、健やかに育つのだと思います」というのも、庭師の彼女に教わったこと。

 旅を終えて帰ってきたら、暗い部屋でマンサクの花がふたつ、ひっそりと咲いていた。誰かがじっと待っていてくれたみたい。顔を寄せ、「ただいま」と囁くだけでは足りず、窓を開け、風を入れた。夜気はあまりよくないだろうかと思い、すぐに閉めた。

 旅の疲れを癒すためにベッドで眠りこけた日も、小雪が舞って窓を白く凍らせた日も、大風が吹き荒れ、ガタガタと窓を揺らした日にも、ユキヤナギとマンサクの花は着実に増えていった。

 そんなある朝、硬いままだった小梅の種のような蕾が、とうとう開いた。若草色の小さなパフスリーブがひとつ出てきたと思ったら、午後にはいくつもぶら下がり、房のようになった。ひとつの蕾のなかに、こんなにふくよかな春がしまわれていたなんて。この枝は日向ひゅうがミズキ。鼻を近づけると、果物みたいな甘い香りがした。

 ふと私は思う。住み慣れた東京を離れ、ひとり神戸に住もうと決めたとき、私はきっと枯れ枝の束だった。あれから十年、いいこともよくないことも風になり、養分となって、少しは小さな花を咲かせられただろうか。そしてこれから先も、まだ見ぬ花が咲くんだろうか。
 春はもうじき。若かったころよりもおっとりと、静かな心でいま思う。

〈 了 〉

文・写真 高山なおみ

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