草日誌

草日誌

2025年5月31日

ソラノマド|高山なおみ 
朝の本


 
 
| 朝の本 |
 
 
 夏に向かって、陽の出の時刻がずいぶん早くなった。窓が薄明るくなると小鳥の声も聞こえてくるので、自然に目が覚める。

 たいていは枕もとのラジオをつけ、うとうと。なんとなく寝ていられない気分の朝はカーテンを開け、ベッドの中で本を読む。

 このところ楽しみにしているのは、葉山の海辺に暮らしていた永井宏さんの『words』。手のひらにちょうど収まるペーパーバックの古い本で、茶色く焼けた紙の手触りも、匂いもとてもいい。海を眺めながら、空を見上げながら、ついさっき、ふいっと頭をよぎったみたいな短い文が、ぽつんぽつんと綴られる。詩のような、ひとりごとのような、余白をたっぷり含んだその文は右ページに。左ページには、タイプライターで打った英訳の文字がとつとつと並ぶ。

 ラジオの中学生向け英語講座の勉強をはじめて、四年がたった。勉強というほどではないけれど、毎日何気なく聞いているうちに、長いことふさがっていた英語用の耳の穴が開いたらしく、少しは体に入ってくるようになった。

 この間上京したときにも、『words』を持っていき、新幹線の中でページをめくった。いつも泊めてもらっている友人の川原さんに見せたら(コートを取り替えっこしていたのは彼女です)、「わあ、いい本だね。日本語の方を先に読みたくなるだろうけど、ぐっとかまんして、英語から読むといいよ。細かいところは分からなくても、大づかみに読んでいくだけで勉強になるから」と教わった。川原さんは以前、イギリスに語学留学をしていたことがある。

 そう聞いて私は、ひとつひとつの小さな文を、英訳の方から読むようになった。見慣れた単語だけつないで、頭の中でイメージをする。すると、ある情景にぼんやりと包まれる。その世界は英語でできていて、分からないなりに、なんだか知っている。むずかしい単語はiPhoneの英訳アプリで調べ、発音を聞く。耳で覚えてぶつぶつと繰り返し、朝風呂に浸かりながら暗誦する。

 私は、英語の言いまわしが好きなのだと思う。
 日本語は、たったひとことでも多くを伝えられるところがあるけれど、英語は違う。詩的なニュアンスを表すときでも、言葉のまわりに小さな部品が備えられ、組み合わさって、カチッとした建築のようだ。声に出して読んでいると、やわらかいはずの情緒がすっくと立って、凛として感じる。私はそこが好きなのだ。

 そもそも『words』は、文子さんが教えてくれた。
 2年ほど前に、ニューヨークからうちのマンションに越してきて仲よくなった文子さん。彼女も料理が好きなので、お鍋や調味料を借り合ったり、車で買い物に連れていってもらったり。ごはんを一緒に作って、食べたり飲んだりもする。イタリア人のパートナー、ファビオの日常会話は英語だから、最初のうち文子さんは同時通訳をしてくれていたのだけれど、このごろ私は、間違ってもいいやと思いながら、直にファビオに伝えるようになった。たどたどしいながらも英語で通す。そういうとき、文子さんはこにこしながら「なおみさん、頑張って」と、見守ってくれる。

 ある日の夕方、空の青が暗みを増し、だんだん濃くなっていくのを眺めながら、私たちはワインを飲んでいた。私はファビオに「青の世界に包まれているね」と伝えたくて、「It’s blue world」と言った。

 ファビオは「blue world?」と、不思議そうにしている。文子さんも、「そういうときは、何て言うんやろう。blue atmosphere でもないしなあ」と首を傾げていた。
 その日はそれで終わったのだけれど、何日かして「この本の中に、青の世界みたいな言い方が書いてあるような気がするねん」と、『words』を貸してくれたのだ。

 25年ほど前に文子さんがニューヨークの語学学校に通っていたころ、『words』はいつもカバンに入っていて、アルバイトの前に立ち寄る小さなダイナーのカウンター席で、よく開いていた。「日本がちょっと恋しく、英語をもっと話したいと願っていたころの思い出の本」なのだそう。

 ひと目見て、私もこの本をほしくなり、信陽堂の丹治君にメールをした。すると、なんと近所の古本屋でみつけたのをすぐに送ってくださった。丹治君は若いころから永井さんのことが大好きで、本も何冊か出していらっしゃる。

 いいな、好きだなと思って、『words』の中で覚えたのは、こんなセンテンス。

 Clouds fly higher and the transparent blue sky is getting deeper and deeper.
——空が高くなって、透明な空のブルーもどんどん濃くなっていく。

 そして今朝、私は続きを覚えた。
 when I was a boy, I was walking to the end of the world looking up at the blue sky. No matter how much my neck hurt, I was dying to continue my walk. It felt magical, as if I was swallowed up by the high sky.
——子供の頃、ずっと見上げながらどこまでも歩き続けた。首が痛くなってきても、吸い込まれていくような感じがたまらなく心地好かったのだと思う。

 暗誦しながら、私は小学生のころを思い出していた。雨上がりの帰り道、運動場に水たまりがあった。さほど大きくもない水たまりだったけれど、私はそこにしゃがみ込み、首を伸ばしてじっと覗いた。青空が映っていた。真っ白な雲の浮かぶ空はとても深く、空の底に誘い込まれるようで、少し怖くなった。

 今は空の上にいる、『words』の中でしか会ったことのない永井さん。透明な空のブルーに吸い込まれていくのは、そんな感じですか?
 
 
〈 了 〉
 
 
文・写真 高山なおみ
 
ほかの回を読む → こちらから

← 前の記事第31回 映画とごはんの会
『奥茂庭——摺上川の流れとともに』

関連記事