草日誌

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2025年7月25日

ソラノマド|高山なおみ 
土用干しの庭


 
 
| 土用干しの庭 |
 
 
 今年は神戸に来てはじめて梅を漬けた。大粒の南高梅を買ってきて、ひとつひとつ黄色くなるまで追熟させてから、ていねいに。塩分は控えめ、重しをせずに保存ビンでする漬け方もはじめてだった。それでも日にいちど、そろりそろりと座布団の上で転がしていたら、わりとすぐに塩が上がった。

 玄関を網戸にして風を通し、日光の届かない廊下に置いた。ぷっくりした黄色い梅が、透明なビンの中でひっそりと、自身から出た液に浸かっている。その様子を、開け放したバスルームから、トイレに座るたびに眺めたりした。

 赤紫蘇を加えてからは、じわじわと赤みが増していくのを観察した。いつ干そう、いつ干そうと天気予報とにらめっこ。

 わずか1キロの梅だけど、窓辺にざるを並べて土用干しをしていると、酸っぱいような、しょっぱいような、鼻の穴の奥までまっすぐに入ってくる懐かしい匂いに包まれる。

 吉祥寺に住んでいたころには、3キロの梅を漬けていた。塩分は15パーセントでけっこうしょっぱかった。いちど漬けはじめたら、3年は続けないと家が滅びるという迷信をどこかから聞きつけた私は、その節目を超えてもなお、毎年せっせと漬けた。

 昔ながらの茶色い甕に新聞紙をかぶせ、麻ひもで結んで、漬けた日にちをマジックで書いたら、らっきょうや梅酒のビンの隣に並べる。赤紫蘇を加えてからは、廊下を通るたびにあの匂いがしてきた。
 とくに夜中だ。梅干しの匂いは、家族とか、家庭とかいう感じがして、心が満たされた。

 ひとりになったら、どうせ食べきれないから、梅干しなんか漬けないだろうとたかをくくって、その甕は手放した。今は、重しや土用干し用の大きなざるとともに、別れた夫のところにある。山里暮らしの彼の庭には、ピンクと白の花を咲かせる梅の老木があり、毎年たわわに実をつける。だから、私なんかよりもずっと、漬ける機会があるんじゃないかと思ったのだ。

 子どものころには、祖母が大量の梅を漬けていた。黒光りする大きな甕が土間の物置にあり、新聞紙の上から、カルピスの包装紙みたいな青い水玉模様のビニール風呂敷がかぶせてあった。土間で遊んでいると、梅干しの匂いで口が酸っぱくなる。ときどき、台所にいる母から「なーみちゃん、梅干しを取ってちょうだい」といいつけられ、いやいやビニール風呂敷をはずし、割り箸でつまんだ。つんと鼻をつく匂い。小さい私は、梅干しなんてどこがおいしいんだろうと思っていた。

 夏休みになると、庭の花壇と縁側の間の小道に、長々とゴザをひいて土用干し。大きい粒も小さい粒も混こぜに、ぎっしりと並ぶ赤い梅干しの上には、8人家族の洗濯物がはためいていた。

 祖母の梅干しの皮は厚く、みな茶色がかった点々におおわれていたような気がする。きっと、どこかの庭で採れたのをもらってきたか、リヤカーを引いてやってくる、農家のおばあさんから買っていたのだろう。

 私はゴザと小道のわずかな隙間につま先立って、塩で粉が吹いている梅干しを、こっそりなめてはまたもどした。唾液なんかが混ざったらカビが生えてしまうだろうに、祖母にみつかっても、いちどもとがめられたことがない。

 ゴザの上を猫が横切る。母がシュミーズ姿で裏から出てきて、氷水を浮かべた冷やご飯に、お箸でひょいと梅をひとつつまんでのせる。縁側で茶碗を傾け、サラサラと流し込んでいた母の陽焼けしたのど。ガリガリと氷を砕く音。暑さにうなだれている向日葵。どこにでもつるを巻きつける、赤や紫の朝顔。黒い種を割り、中に詰まっている白い粉を顔に塗って遊ぶおしろい花。ジリジリミンミンふってくるような蟬の声。そこいらじゅう、すっぱしょっぱい梅干しの匂いでいっぱいだ。

 祖母が亡くなってから、母はいちどでも梅を漬けたことがあったろうか。糠床にカビが生えたので捨ててしまったという話は、ずいぶん前に聞いた気がする。

 梅干しの甕と糠漬けの樽が、日陰の土間に息づいていた古い木造の家は、とっくの昔に取りこわされ、父の亡きあと、新しく建て替えられた家で暮らしていた母も亡くなった。

 今はその家も、姉夫婦がリフォームをして人に貸しているようだから、私の実家は正真正銘なくなった。けれども、あの土用干しの庭の記憶は、いつまでもなくならない。

 ふと私は、スイカの皮(白いところ)の塩もみが冷蔵庫にあったのを思い出し、窓辺で陽に当てている赤梅酢を少しすくって浸けてみた。ほんのり赤く染まったスイカの皮は、パリポリと歯ごたえよく、甘酸っぱくてなかなかいい香りがする。

〈 了 〉

文・写真 高山なおみ

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