草日誌

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2026年10月4日

ソラノマド|高山なおみ 
秋に思う

| 秋に思う |
 
 
夏の終わりのつくつくぼうしが、まだ元気に鳴いていたころ、三宮からバスに乗って高知に向かった。

ひとり旅はわくわくするけれど、いつだって心細さが半分。

明石海峡を渡り、淡路島を通って、緑濃い山懐ふところに抱かれた道をひた走り、高知の町に着いた。

トークイベントをすることになっている書店「十月」は、あまり車の通らない、ひろびろとした十字路にあった。

扉以外はガラス窓。外の空気と店内が、ゆるやかにつながっているような、見晴らしのいいところ。

新しい木の匂いに、ほんのりコーヒー。
本屋さんなのにそれほど本は多くなく、なんだか店長の幾野さんの家の図書室に、靴を脱いで上がらせてもらっているみたいだと思った。

ガラス窓からは、通りを挟んで昔ながらの魚屋さん。私が子どものころの魚屋さんは、こんなだった。氷がばらまかれた平台に、いろんな魚やお刺身が並べられているから、買いにきた人は一目で見渡せ、今日食べたい魚を選ぶことができる。

店内で、棚に並んでいる本や雑誌をふわふわ眺めながら、ふと振り返ると、呑気そうに通りを歩いていく人や、魚を選んでいるおばさんの後ろ姿が見えた。

奥の四角い展示部屋に入ると、そこは私の『日々ごはん』の世界。

40代から書きためた自分の日記の本が、29冊並んだ小さな丸机。腰掛けに座り、誰でも自由に読めるようになっている。

まわりの壁には、1冊1冊の中から抜き出されたある日の日記が、正方形の白い紙に印刷され、神戸のうちの床タイルみたいに貼ってあった。

私は心を沈め、20年分を、端からゆっくり読んでいく。

1日、そしてまた1日。
遥か昔の遠い日に、私が綴っていたのは、生まれたばかりみたいな湯気を上げる言葉だった。

今の自分とは違うけれど、そこに私がいる。
景色が見え、気持ちも触れるくらいに蘇る。

私はスイセイ(長い間ともに暮らした元夫)のことが大好きだったなあ。
たまらなく懐かしく、涙がふき出た。

別居を決めた日。そして神戸に移り住み、心細い日々を送る私。亡くなるまぎわの母の病床記。

読み進めるうち、よく書いたなあと他人ごとのように感心し、また、底のないしつこさに圧倒される思いもした。

どうして私はこんなにも、記録したがるのだろう。

感じたことは目に見えないけれど、言葉にすると見えるようになる。だから私は、自分の体の内側の輪郭を撫で、確かめてきた。

今も、きっとこれからも。
それはなぜ?
 
秋になって、作家の土門蘭さんと京都で対談をした。
『死ぬまで生きる 日記』を読んで、会ってみたくなったから。

私にとって死は自然なものだけれど、死にたい、という思いがときおりやってくる土門さんにとっては、自然なものなんかではない。

韓国人の母を持つ土門さんは、小さいころから、「お母さんが心配しないよう、自分のことは自分で解決できるようにならないといけない。わからないことは、自分でわかるようにしなくてはいけない」と思っていたそうだ。

言葉を書いている間だけは、死にたい気持ちから離れられるので、今でも、誰にも見せない日記を書き続けている。

対談の後半で土門さんは、「私と高山さんの共通点を挙げるとしたら、言葉が届かなかった時代があるということだと思うんです」と言った。

ほんとだ。

私は子どものころに吃音があった。どうしてもみんなと同じように話せないので、自分は世界に嫌われていると感じていた時期がある。

日本語のわからないお母さんを、自分が守ってあげなければ。本当は、甘えたくてたまらないのに、何でもないふりをしてがんばってきた小学生の土門さんと、貝みたいに口をとじていた小学生の私が、握手をした気がした。

「小さいころの感じ方のクセは、今もお腹の中にあって、消えないんだと思います」と土門さん。

それで、心当たった。
ああ、だから私は日記を書くのか。

日記だけではない。こうして文を書いて、本にしたくなる。

いちど嫌われた世界に向かって、確かめたい。
自分はここにいてもいいのかなって。

いつか私にも、日記を書かなくても大丈夫な日がくるんだろうか。

そのときがきたら、言葉を胸に秘めたまま日々を過ごすことがどんなふうなのか、ちゃんと確かめてみたいなと思う。

 
   

 〈 了 〉
 

 
文・写真 高山なおみ
 
 
ほかの回を読む → こちらから
高山なおみさんの本 → 『毎日のことこと』

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『湯—山形県大蔵村肘折ひじおり温泉郷』

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