草日誌

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2011年8月28日

ロルフィングで感じたこと
session1, 2

8月から、ロルフィングのセッションを受けはじめました。初回は12日で、1週間おいて24日が2回目。
10回セットのメニューがはじまったばかりです。
すでに1回目からからだに変化が起こりはじめていますが、まだまだこれから何が起こり、何を感じるのかわかりません。ロルフィング自体、受け手の感じ方を非常に大切にするもののようで、セッション中に何度も「いま、どう感じていますか?」と訊かれます。その時々の感じ方が、自分でも意外な受け答えをしていて、とても面白くてあきません。
せっかくなので、あえて未整理で、その時に感じたことをなるべくそのまま記録しておこうと思います。
あくまでぼく個人の感覚です。その時感じたこと、頭に浮かんだことです。ロルフィングの施術とは関係ないかも知れませんし(たぶん関係なさそう)、人によって感じ方はそれぞれだと思います。その前提をご理解いただき、お読み下さい。

8月24日 15:00〜16:00
今日は「足」を中心に。
まず前提として、何が行われているのか、まったく分からない。そこが面白い。とにかく観察されているのは、わかる。見られている。感覚されている(変な日本語ですが)。いままでいろいろな施術を体験してきたけれど、ここまで微細なアプローチははじめて。
前回は「呼吸」を中心にしたワークだった。その結果気がついたことは、自分は肺で目いっぱい息を吸うことが実に苦手だ、ということ。

セッションのはじめと終わりに写真を撮る。
正面、左向き、背面、右向き。
そしてベッドへ。
今日はうつぶせの状態ではじまる。
左から、足の裏になにか板状のものを軽くのせられる。
その板を感じながら、呼吸を深めていく。
すね、膝、ふとももと、かるくかるくTさんが触れていく。
していることは、その軽いタッチだけのように感じる。
タッチは背中に移り、肩胛骨のあたりも。(あとで言われたことだが、けっこう反応があったそうです)
そのうち、意識がずーっと深くなっていく。
気持ちいい、という感覚と同時に、
深いところからの恐怖心がうっすらとにじんでくる。
恐怖というよりも、あらがい、抵抗。
からだ(たましい?)が、からだがばらばらだった時のことを憶えていて、そこに戻されるのではないか、という恐怖から抵抗している。
「せっかくまとまったのに、またばらばらになるのは勘弁してくれ〜」といっている感じ。
その抵抗の仕方が、原始的というか幼いというか、聞き分けのない小鬼のようでおかしい。(指輪物語に出てきた、あいつのような感じ)
自分の中にこういう部分があるのか、とかなり新鮮に驚き、興味深かった。ほかの施術や瞑想などでレベルに入ってみたときも、こういう存在に出会ったことはなかった。
ぼくはぼんやりと「このからだに執着するもの、去れ!」と繰り返している。「ここは執着するところではない」と。なぜそう言ったのか、それが正しい反応だったのかはわからない。ただ、粘着質な様子がちょっとうっとうしくて「去れ!」と思ったのだ。

そういうしているうちにTさんに声をかけられて、いまのような話をするけれど、どこまで伝わるように話せたかは自信はない。

終了後の写真を今回のスタート時と前回を比べてみると、明らかにデフォルトの姿勢が変わっている。前回に受けたアプローチの慣性によって、2週間かけて自分のからだが変化し続けていた、ということか。

Tさんに「こういうからだへの働きかけを何と呼ぶのです か?」と質問すると、「再教育、リエデュケーション。教育という言葉がひっかかるようでしたら、身体的実践、ソマティックプラクティスと呼ぶ人もいます」という答えがかえってきた。医療行為ではなく、からだが本来あった状態に戻す、戻りやすくなるための方向付け、ということだろうか。
あのほんとに触れるか触れないか程度の接触が、明らかにからだの変化を呼び起こしている。それは自分のからだを通して実感していることだ。以前、整体の本を作っているときに知ったからだの誘導術のことを思い出していた。そうだった、すっかり忘れていた。
小さな力で、最小の動きで、からだを誘導する。反射を使って誘導する。最近興味を持っているチネイザンにも通じるものかもしれない。
次回が楽しみです。
ばななさんの新刊『Q 健康って?』を読まなくては。

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