2011年7月25日
人は起きているように見えてもほとんど眠っているに等しい、という話を聞いたことがあります。
正確な意味はわかりませんが、人間の持っている知覚のほとんどは普段は使われていない、というようなことだと自分では解釈しています。
実際に、ふだんと同じ風景がまったく違った印象に見える瞬間があります。何かの比喩に「世界が薔薇色に輝いて見える」といいますが、まさにそんな瞬間。その時、その人の普段は眠っている部分が働いているのでしょう。映像でいえばハイビジョンや3D。音響でいえばサラウンド。平面的に見えていたものが急に立体的に見える瞬間です。違うかな。そう見えたあとに、いままで見ていたものがいかに平板で陰影に乏しいものだったかに気づく。
人を見ているときにも同じことあります。もちろん見た目が急に変わった訳ではないのに、その人の魅力がからだの深いところから輝いて見える。そういう姿を見ると、訳もなく嬉しくなります。素敵だなあ、と思います。
ぼくはそういう「世界が近く感じる」時間が大好きです。風は優しくほほえみます。水が楽しげに歌います。 草花がささやきます。木々は楽しげにからだを揺らします。この世界に生まれてよかったなあ、と感じます。世界のことが大好きになります。道行く人をみんな抱きしめたくなります。自分でも大丈夫だろうか、と心配になりますが、道を歩きながら突然そういう感覚に包まれることがあります。自分が世界を好きでいるのと同じように、世界も自分を好きでいてくれる。何の根拠もなく、そう感じます。
たったいま、洗濯物をたたみながらその感覚に包まれていました。シャツのシワをのばしながら、タオルの端を揃えながら、急に世界が近く思えました。じんわりと幸せを感じました。まだまだやっていける。だってこんなに世界が近い。そして、あれ? いままで何してたんだろう? と思いました。くるっと薄い膜の向こう側に出たような感触です。
大きなものと繋がる、という感覚は、もしかするとそういうことなのかも知れません。
ほかの人は、この感覚をどう感じて、どう表現しているんだろう。お父さんは? お母さんは? お祖父ちゃんはどうだろう? そこの猫は? あの花は? みんなどう感じているんだろう?
ものごころついた頃から、そんなことばかりを考えていたように思います。ここは自分の原点で、きっと何も変わっていないところ。
編集する、本を作るという仕事を、ぼくは勝手にその延長に置いてきたように思います。そんな自己流のやり方でいままで仕事をして生きてこれたことに、たったいま、ものすごい驚きを感じています。そしてそのことを、何にも代えがたく幸せなことだと思います。振り返ればこんな細道を、よく歩いてきたもんだ。でもこの道じゃないと、歩いた実感がないんですよね。