2020年12月20日
2020年12月、信陽堂が出版社として動きだしました。
一冊目は永井宏さんの小さな言葉を集めた本、『愉快のしるし』です。
たとえばこんな文章。
ひとつの風景を思い出すと、ひとつの出来事を思い出す。自分がいた場所や時間の記憶は豊かな自然と一緒で、積み重ねてきたものが生い茂るように自分の中で育っていく。
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風の強い日、丘の上で体を風に任せる。体を前傾し、手を大きく広げ、空を飛ぶ真似をしてみたり、草の中に寝そべって、風の横切っていく音を聴く。空を見上げて風を見つめる。自分の居場所がわからなくても、そうして、とにかく生きているんだってことを体で知るということが必要なときもある。
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新しい出来事は古い出来事でもある。記憶を何度も繰り返して、そのどこかとどこかを結びつける。すると新しい未来が見えてくるような気がしてくる。
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料理の基本はシンプルで清潔なこと。食べることの心地好さが上手く伝わることが秘訣で、もちろん、美味しく食べてくれる人も必要だけど、もっと大事なのは毎日の自分の気持ち。
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少しずつだけど、ちょっとだけマニアックな本屋さんが増えている。個人の目で選び、その意志や心意気を本というものを通して伝えているような店で、規模が小さくても、本の持っているさまざまな目的をみんなで眺めようとしている場所でもあるような気がする。
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その場所の精霊が宿ったようなときの気分っていうのがある。月や太陽や海や空が自分のためだけにあるような風景が目の前に大きく広がっていて、その神秘的な色彩の反射の中に自分も佇んでいるのだということを知ったときだ。
この本に収められた文章は、葉山にある「SUNSHINE+CLOUD」の通販カタログのために永井さんが書いたものです。
1995年のオープン当初から作りはじめられたカタログは年に2回発行されていて、現在52号。そのうち永井さんは1号から2011年春の33号までのすべてのテキストを担当しました。
モノクロームの商品写真と短いテキストで構成されたシンプルなカタログで、紹介されるのは1ページに基本はひとつのアイテムだけというミニマムなものです。商品説明やいわゆるコピーがある訳ではなく、そのバランスに海の近くで暮らす人たちのゆったりした生活感がにじむようでした。表紙には毎号違った永井さん手作りのスタンプが押されていて、春と秋に届くカタログを海辺の友人からの便りのように感じている人も多かったと思います。
のんびりした空気の中で、時おりドキッとさせられるようなテキストが挟み込まれることもあり、表現者としての永井さんの姿勢に励まされることも、叱られているように感じることもありました。
自分の手元にある一番古いものは1996年秋発行の4号。その頃永井さんと出会い、いただいたものです。
そのすぐあとに永井さんと本を作りはじめ、以来数冊の本を編集してきました。
『雲ができるまで UNTIL THE CLOUDS APPEAR』1997年 リブロポート
『夏の仕事 SUMMER WORKS』1998年 メディアファクトリー
『モンフィーユ mont-feuille』2005年 アノニマ・スタジオ
『A BOOK OF SUNLIGHT GALLERY』2007年 アノニマ・スタジオ
『サンライト』2019年 夏葉社
『愉快のしるし』2020年 信陽堂
僕は永井さんに対してけっして誠実な編集者ではありませんでしたが、こうしてタイトルと出版社の名前を並べてみると、自分自身の編集者としての歩みがそのまま出ているようで、改めて永井さんに受けた影響の大きさを痛感します。
2011年4月12日、永井さんが亡くなりました。震災のひと月後のこと。
療養されているのは知っていましたが、震災のあとにはみんなを励ますようなメールやツイートをなさっていて、これからの時代も永井さんと一緒にすごせるものと思っていました。勝手なものです。
永井さんの不在を自分で確かめるために、5月ころから毎朝ひとつずつ、カタログのテキストをツイートしはじめました。改めて書き写してみると、永井さんが考えていたこと、伝えたかったことをくっきりと感じることができる気がしました。
それ以来、毎朝の習慣となった永井さんツイートは止めるタイミングを失ったままいまに至っています。
数年前から、信陽堂として自分たちの企画で本を出したいと考えるようになり、その一冊目はこのカタログのテキストをすべて集めようと決めました。
思いは固まったものの、日々の仕事に流されてなかなか動き出せなかった2019年2月、夏葉社の島田潤一郎さんから連絡をいただきました。
「永井さんのアンソロジーを、丹治さんの編集で夏葉社から出したい」
思いがけないお話でした。素直にうれしかった。
編集者としてもひとりの出版者としても尊敬する島田さんが永井さんの文章を評価してくださっていること、そして、自分と仕事がしたいと言ってくださること、どちらもとてもうれしくて、ふたつ返事でご一緒させていただくことになりました。
そうやってできたのが『サンライト』です。
(そしてこの『愉快のしるし』も、島田さんの存在と、一緒に作った『サンライト』が背中を押してくれたものだと思っています。島田さん、あらためてありがとうございました。)
それから1年、やっと『愉快のしるし』が形になりました。
この本は自分だけの仕事にしたくなくて、可能なかぎり永井さんにつながりのあるみなさんにお力を貸していただきました。
タイトルは、大阪・星ヶ丘でSEWING TABEL COFFEE(永井さんによる命名)をいとなむ玉井恵美子さんと一緒に考えました。ご存知の人も多いと思いますが、このSEWING TABELのある星ヶ丘洋裁学校は言葉にできない奇跡のような場所で、永井さんはこの場所とここに集う人たちのことをずっと愛していました。
ブックデザインは、永井さんとのご縁で出会ったF/style(新潟)の五十嵐恵美さん、星野若菜さんのおふたりと相談しながら一緒に作り上げました。本に掲載された永井さんのスケッチやメモ、カタログの写真もエフスタイルの撮影によるものです。
巻末に掲載したカタログが生まれるいきさつについての文章「小さなカタログと永井さんをめぐるいくつかの話」は、ワークショップの生徒として永井さんの薫陶を受けた及川佳寿美さんが担当、SUNSHINE+CLOUDの高須勇人さんと南里恵子さん(永井さんの奥さま)に取材して書いていただきました。
この本は、永井さんが繫いでくださったほんとうにたくさんの人の助けをうけて生まれました。その意味でこの本は「人と人とをつなげることも、自分の表現のひとつ」と考えていた永井さんらしい、新しい作品にちがいありません。
『愉快のしるし』
永井宏 著
新書変形判上製(177ミリ×117ミリ)496ページ
デザイン F/style(五十嵐恵美・星野若菜)+信陽堂編集室
校正 猪熊良子
編集 信陽堂編集室(丹治史彦・井上美佳)
印刷製本 廣済堂、日光堂、Allright
ISBN978-4-910387-00-0 C0095