草日誌

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2012年12月23日

注連飾りを作る

近所の奥さまがたと、お正月の注連飾りを作りました。
井草で縄をない、飾りものをつける。
たったこれだけのことですが、縄の形を決めて、意味を考えながら飾りものを選ぶうちに、「住まいを守る」という気持ちが増していきます。
これは確かにおまじないです。
フラでもマロ(ふんどし)を自分で縫ったり葉蘭を編んだり、自分の身に触れるものに自分で手をかけます。
行為の中から、気持ちをそこに向かわせていく技術がある。
こころを澄ませてゆく技術。それを「祈り」と言ってもいいと思います。

注連飾りはここから先は魔は入れないという「結界」でもあるし、
「ここは神さまがいるところ」という印でもある。
草を撚り縄を締めていく行為そのものに「結界を張る」意味があるように思いました。逆説的ですが「注連縄」に反応しないようなものがそこを通っても、それはおそれるほどのものではない。「結界を張る」とはそういう風に「ものごとを本質に近いところで分ける」ことなのだと思いました。これは、やってみて初めて気がついたこと。
今日参加したのは、女性が10人ほどで、男性は僕ひとりでした(昔から行くところ行くところで、大抵そういう割合になります。なぜか)。
先生が「昔は注連縄をなうのは男の役割だったんだけどねえ」とおっしゃってましたが、たしかにこれは男の仕事だと思います。男の戦い方はなにも刃物や鉄砲を持って戦地に赴くことだけではないでしょう。結界を貼り、ほんとうに忌むべきものを見極め避け続けることも、大切な闘いに違いない。それが日々の営みであり、暮らすということだと思います。
そして半ばオートマチックに谷川俊太郎さんのあの詩が思い浮かびます。

  生きているということ
  いま生きているということ
  それはミニスカート
  それはプラネタリウム
  それはヨハン・シュトラウス
  それはピカソ
  それはアルプス
  すべての美しいものに出会うということ
  そして
  かくされた悪を注意深くこばむこと
          谷川俊太郎「生きる」より

注連飾り作り、今年初めてでしたが、来年もきっと作ろう。
ご近所の男性諸氏、ご一緒にいかがですか?

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