草日誌

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2022年7月18日

永井宏さんと
『雲ができるまで』のこと

永井宏さんの『雲ができるまで』が完成しました。

洗濯をしていると見えてくるのは、
すごく個人的な小さな幸せ。
それを光と風の力を借りて、
毎日毎日積み重ねると、
もっともっと愛がふくらんで、
勇気と希望につながっていく。
(「ここのつの洗濯」より)

舞台は湘南・葉山でアーティスト永井宏さんが92年〜96年に運営していた〈サンライト・ギャラリー〉。
「暮らすこと」をひとつの表現ととらえ、日々の小さな出来事やささやかな気持ちの変化を共有することを作品にしようとした永井さんの試みと、それに共感し自分らしい生き方と表現を探しはじめた人たちの姿をみずみずしくスケッチした作品集です。
巻末には永井さんと親交が深かった堀内隆志さん(鎌倉café vivement dimancheマスター)にエッセイを寄せていただきました。

本書はこれまで二度出版されました。最初の版は1997年に私が編集をつとめてリブロポートから、二度目は2001年にブルース・インターアクションズから。リブロポートの活動休止で絶版になっていたものを、荒木重光さんが掬い上げてくれました。荒木さんはかつてリブロポートで机を並べた同僚で、会社がなくなった後それぞれ別の会社に移り出版の仕事を続けていたのです。デザインはリブロポート版に続いて井上庸子さんが担当しています。そして今回が三度目の出版になります。この本が最初に出てから25年が経ちました。
(下の写真は、左からリブロポート版、ブルース・インターアクションズ版、信陽堂版)

永井宏さんにはじめて会ったのはたしか1996年の秋のことでした。
ある著者さんを介して永井さんが東池袋にあったリブロポートを訪ねてくれました。
当時の編集部はリブロ(書店)の本部に間借りしていて、外光のささない薄暗い打ち合わせスペースに永井さんを迎えました。永井さんはすでにリブロポートが発売を担当する版元〈トレヴィル〉から『海を眺めていた犬』という本を出していました。その意味ではすでに会社と繋がりがあったにも関わらず、若輩編集者の私に会いにきてくれたのです。緊張しないはずがありません。永井さんは名刺代わりにと出来たばかりの〈SUNSHINE+CLOUD〉の通販カタログ4号と〈サンライト・ギャラリー〉の展示のDMを数枚、私家版として作られた『ZUECCA』を差し出しました。カタログは16ページほどの冊子でモノクロの商品写真と小さな文章で構成されていました。いわゆる商品を説明するコピーではなく、日常の一瞬や思考の断片をスケッチしたようなテキストでした(これらのテキストをのちにまとめたものが『愉快のしるし』です)。
例えばブランケットの写真の上にはこのような文章が添えられていました。

凄く寒い日に浜辺に出て、思いっきり暖かい恰好をして、しばらく寝そべってみると、いまの自分の本当の気持ちが解るような気がする。冷たい風の中に、自分が守っているもの、守られているものが見えてくるからだ。

何かが自分のこころをノックするのを感じました。
この小さな冊子に、いままで見てきた出版物とはあきらかに違う魅力を感じました。
「気楽さ」というか「軽やかさ」「自由」というか……カタログではあるけれど、それはひとつの表現でした。「書籍編集者」であろうとしていた自分には見えていなかった世界がありました。こんな表現が成り立つんだ、と驚き、同時にその身軽さにちょっと嫉妬しました。
そして永井さんは早口で話しはじめました。

自分はここ数年葉山で〈サンライト・ギャラリー〉という場所を運営してきた。大げさに聞こえるかもしれないけれど、そこでは「人の暮らしを表現にする」という新しい表現の実験を繰り返してきた。ギャラリーはそろそろ閉じようと考えているけれど、そこで出会った人たちとの出来事を短篇連作のような形でまとめてみたい。
自分たちの暮らしに視線を向けることは民俗学的なことにもつながるし、それを外からの視点ではなく生活者自らの感覚で表現にとどめることに意味がある。それを自分は〈ネオ・フォークロア〉と名づけようと思う。日本には民藝運動があったけれど、それを20世紀のいま自分たちの暮らしの中に見つけることに意味があると考えている。

……そんなお話でした。

正直その当時の自分がどこまで理解していたかは心許ないのですが、それでもギャラリーに集う人たちのエピソードや〈ネオ・フォークロア〉という言葉に、何か目の前にひろびろとした風景が広がるのを感じました。そして、この本を作りはじめました。

目次にはデイズ、カフェ、ハウス、レシピ、レイ、ガーデン、ウクレレ、マイホームなどの言葉が並び、永井さんがこの本に纏わせようとした空気をうかがうことができます。
戦後、欧米のさまざまな文化に憧れ吟味しては次に乗り換えるうちに経済は爛熟し、そしてバブルも弾けた。その時期永井さんは東京から湘南に移り住み、新しい価値観に根ざした生活文化の可能性を見出そうとしていました。それは人の暮らしの中に連綿と続いてきたはずの、生きる実感を再発見することでした。
欧米の影響はひと通り経験した。その上で、日々過ぎてゆく時間とそれを感じる自分の内面に意識を向けることで、ひとりひとりの暮らしをかけがえのないものにしてゆく。それは、個々の経験は誰かと共有できる普遍的なものに昇華することができるということです。それが永井さんがネオ・フォークロアと呼んだ「誰にでも表現することはできる」「生活を芸術にする」というささやかな実験でした。

その活動に早くから応答していたのは永井さんが20代から交流を続けていた島尾伸三さん、潮田登久子さん、中本佳材さん、濱口雅彦さん、佐藤三千彦さん、小渕ももさんといったアーティストたち。その後近所に住む作家やオープンからのスタッフでもあった小山千夏さんとその友人たちも個展を開くようになりました。そこにギャラリーの活動を知った根本きこさん、ナカムラユキさん、中川勇人さん(中川ワニ珈琲)、井上庸子さん、福田たかゆきさん(CHAJIN)、岩﨑有加さんといった多様なジャンルの若い世代も参加するようになります。鈴木るみ子さん、赤澤かおりさんら多くのライターが永井さんが示す価値観に共鳴し、その後の『クウネル』『天然生活』などのいくつもの企画につながってゆきます。2003年に私がはじめたアノニマ・スタジオももちろんその延長にありました。

この本は読者にもあるインパクトを持って迎えられていたようです。
荻窪の書店「Title」店主の辻山良雄さんが著書『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)で『雲ができるまで』について書いています。

永井宏の文章をはじめて読んだときの静かな衝撃は、いまでもはっきりと覚えている。(略)自分の周りにもいそうな登場人物と、特別なことは何一つ起こらないストーリー……。「とても気持ちのよい文章だ」と思う一方で、このような文章がそれまで誰からも書かれていなかったことに驚いた。

当時永井さんの原稿を編集しながら、主人公たちの思い、迷い、潔さに励まされ、彼らの物語が親しい友人のように思えたことを思い出します。どんな場所にもいつの時代にもつつましい人のいとなみがあり、そのひとりひとりの姿が物語になるのです。その意味では「何一つ起こらないストーリー」こそが永井さんが描こうとしたものだったのかもしれません。先の辻山さんの文章は次のように締めくくられます。
「大切なのは、誰かのことばをありがたがることではなく、ぎこちなくても自分のことばで話し、そのそばにいること」。
生きている実感を人まかせにしないこと、それがささやかでも自分で表現するということで、自分の人生を愛する方法になるのだと。永井さんが大切に伝え続けたことはこういうことではなかったかと想像しています。

初版の出版から25年が経ちました。いま改めてこの本で永井宏さんが描いたことがまったく古びていないことに驚いています。
それはひとりひとりの暮らしの断片の中にも普遍的なことが確かにあり、時間に侵食されることなく伝わっていくということです。永井さんはそれを「自分たちの暮らしが永遠になる」と表現していました。
この本を新たに出版できることをとても嬉しく思っています。

『雲ができるまで』
永井宏/文・写真・アートワーク
新書変形判 上製(177×117ミリ)304ページ

協力 南里惠子、堀内隆志、赤澤かおり
   café vivement dimanche
編集+デザイン 丹治史彦、井上美佳(信陽堂編集室)
デザイン協力 F/style(五十嵐恵美、星野若菜)
校正 猪熊良子
印刷進行 藤原章次、田川いちか(藤原印刷)

本文印刷 藤原印刷
表紙印刷 日光堂
製本 加藤製本
ISBN978-4-910387-03-1 C0095
価格=2,420円(税込)
送料=250円

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(ポートレイト写真:大社優子)

永井宏(ながい・ひろし)
美術作家。1951年東京生まれ。1970年なかごろより写真、ビデオ、ドローイング、インスタレーションなどによる作品を発表。80年代は『BRUTUS』(マガジンハウス)などの編集に関わりながら作品を発表した。1992年、神奈川県の海辺の町に転居。92年から96年、葉山で生活に根ざしたアートを提唱する「サンライト・ギャラリー」を運営。99年には「サンライト・ラボ」を設立し雑誌『12 water stories magazine』を創刊(9号まで刊行)、2003年には「WINDCHIME BOOKS」を立ち上げ、詩集やエッセイ集を出版した。自分でも旺盛な創作をする一方で、各地でポエトリーリーディングの会やワークショップを開催、「誰にでも表現はできる」とたくさんの人を励まし続けた。ワークショップからはいくつものフリーペーパーや雑誌が生まれ、詩人、作家、写真家、フラワーアーティスト、音楽家、自らの表現として珈琲焙煎、古書店、雑貨店やカフェ、ギャラリーをはじめる人などが永井さんのもとから巣立ち、いまもさまざまな実験を続けている。
2011年4月12日に永眠、59歳だった。
2019年、『永井宏 散文集 サンライト』(夏葉社)、復刻版『マーキュリー・シティ』(ミルブックス)、2020年『愉快のしるし』(信陽堂)が相次いで刊行され、リアルタイムでの活動を知らない新しい読者を獲得している。

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