草日誌

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2023年8月22日

『セツローさんの随筆』のこと

たくさんの
きれいなものを
うみだした人

セツローさんは1929年岡山生まれ。長く松山の病院でレントゲン技師として働きながら、洋画家として活動していました。その後、手が求めるまま野の草花をスケッチし、桜の枝からかんざしや匙、篦などを削り、手びねりの土人形など、小さく愛らしい作品を生みだし「セツローさん」の愛称で親しまれた方です。


(写真:河上展儀)

セツローさんは高知在住の陶芸家・小野哲平さんのお父さまであり、布作家早川ユミさんの義父。私たちはアノニマ・スタジオ時代に早川ユミさんとの本づくりの中でセツローさんに出会い、作品以上にその人柄に惹かれました。軽妙、洒脱、そして含羞の人。一見素朴に見える作品の背景には自分にも人にも厳しい美意識、芸術への憧憬と信頼があるのは隠しようもありません。

毎年恒例になっている哲平さんの薪窯焚きのお手伝いに高知を訪ねた、ある夜のことでした。
「じつは私も文章を書いたことがあるんです。よかったら読んでみて」
そう言って、いつになくはにかんだセツローさんが手にしていたのは、コピーをホチキスで綴じて表紙を付けた、二冊の文集でした。「鯰」「倉」と題されていました。

「飾らない文章」とは、こういうものをいうのでしょう。
子どもの頃の出来事や海軍時代の思い出、家族のこと、職場や友人とのさりげないエピソードが素直に、ユーモラスに語られ、墨で描かれた味わい深い挿絵が添えられていました。
収められた文章はセツローさんのお人柄そのままで、一読、魅了されました。
その場で数篇読み「いいですね」と顔を上げると、セツローさんが目尻の皺をゆるませて「いつか本にならないかなあ」とおっしゃいます。「そうですね」と答えはしたものの、その当時はまだ信陽堂は出版をスタートしておらず……
横で早川ユミさんが「そんな無理言ったら困るでしょう。でも確かに信陽堂さんならいい本にしてくれると思う。おじいちゃん、そうなったらいいね」と笑顔で続けます。
「はい、いつかきっと……」とその冊子を胸に押し懐き東京に戻りました。
当時私たちはアノニマ・スタジオを離れ、信陽堂編集室としてほかの版元や企業から編集を請け負う形で本や記事を作っていました。
いつか、いつか自社の本を作りはじめたらセツローさんの原稿を形に、と思ううちに数年がたち、2017年セツローさんは帰らぬ人となってしまいました。
編集室には、二冊の私家版が残されました。
信陽堂が出版をはじめたのはそれからさらに3年後の2020年の暮れのこと。
そして2023年のいま、やっと『セツローさんの随筆』をやっと出版することができました。

母の作る漬物のなかで、沢庵漬は最高においしかった。
私が漬物を漬けるようになって、母の漬物が、どうしてあんなにうまかったのか、初めて分かった。
幼かった日、私は幾度か垣間見たことがある。寒い夕暮れ、漬け終わった糠の上を、母がひたひたと、手のひらで、優しく、愛おしむように叩きながら、
「おいしく漬かっておくれ」
「いいダイコだから、きっと、おいしく漬かっておくれね」
と、漬物に話しかける姿を。——「倉」より

ドラマチックなストーリーも人生を導く金言もありませんが、誰にもきっと訪れるであろう、人生の忘れがたい一瞬がみずみずしく書き留められています。

岡山から津山線で北へ行った所に、福渡という小さな町がある。ちょうどその時、そこの中学校の教師を頼まれ、叔父は田舎の学校というのが気に入って、引き受けた。
生徒には人気のある先生だったが、一風変わった教師であったらしい。色々、エピソードが残っている。
作文の採点に、全員に百点をつけて、同僚の教師に苦情を言われる。
「全員百点は困る。私の採点と釣合いが取れない」
「それでは、一割引きで、全員九十点ではどうですか?」
こんなトボけた所もある叔父である。
又、その頃は、アイスキャンデー売りが、珍しかった。
教室の窓の下を、自転車に大きな木箱を乗せ、赤地に白字を染め抜いた幟を立て、
「冷たいアイスキャンデー
冷たいアイスキャンデー」
と叫んで走る。
叔父は、そわそわしている一番前の生徒に金を渡し、
「キャンデー買うて来い」
授業中に、先生も生徒も、夢中でアイスキャンデーをペロペロ嘗めている図は、想像しただけでもおかしい。——「三人の叔父と祖父」より

滋味深く、時にユーモラスな語り口で描かれる昔日の光景、家族の思い出、日々のできごと。
本書には私家版の随筆集「鯰」「倉」から19篇を選び収録しています。
スケッチや造形作品も合わせて収録しました。
巻末には陶芸家の子息、小野哲平氏が父セツローさんとの思い出を描くエッセイを寄稿しています。

高知県谷相の家にて
左から、小野哲平さん、セツローさん、早川ユミさん(写真:河上展儀)

セツローさんたちのポートレイトは河上展儀さんが撮られたものをお借りし、
立体作品の撮影は大沼ショージさんにお願いしました。
印刷は藤原印刷さん、表紙の文字と枠線は日光堂さんによる活版印刷、製本は東京美術紙工協業組合のお仕事です。

『セツローさんの随筆』
小野節郎/文・絵
B6変形判上製(160ミリ*113ミリ) 176ページ

協力 小野哲平、早川ユミ
写真 河上展儀、大沼ショージ
校正 猪熊良子
印刷進行 藤原章次(藤原印刷)
編集・造本 信陽堂編集室(丹治史彦 井上美佳)
印刷 藤原印刷
表紙 日光堂(活版印刷)
製本 東京美術紙工協業組合
ISBN978-4-910387-05-5 C0095

価格=2,200円(税込)
送料=250円

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