草日誌

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2023年9月2日

人に潜る 第5話
いのちの被膜|京都 ②


 
 
 

夏の陽射しの強い⽇だった。
京都・室町にある帯屋の⽼舗、誉⽥屋源兵衛の奥座敷に屈み込んで⼤量の古い⼦ども服を畳に並べていた。広い屋敷のどこかの軒下から⾵鈴の⾳が聞こえてきて、中庭にカメラを向けると⾳もなく樹々が揺れていた。⽣まれたばかりの⼦を包んでいた肌着や、あちこち異なる布があてがわれた⽣活着、⾊鮮やかな絵や刺繍の施された位の⾼い家の晴れ着もあった。古くは江⼾時代から明治を経て⼤正まで。⻄は沖縄の芭蕉布があれば、東は⼭形の紅花染もあった。どこでどんなふうに着られていたのか、どれひとつ定かではなかったが、それぞれにかつての持ち主の佇まいを幽かに浮かび上がらせていた。

持ってる着物が⼀枚とか⼆枚やから。
せやから離れてへんわけや。
着てるもんとその⼈が⼀体なんよ。
その着てるもんが着てた⼈の魂になってるわけや。
乗り移っているというより、その⼈そのものなんや。

⼭⼝源兵衛さん(74)は、いまから10年ほど前にたまたま古い⼦ども服を⾒かけて以来、着物を熟知した京都の⽬利きたちに頼み、全国各地で取り壊される空き家から⼦ども服を蒐集している。

全部、⺟親が縫うてるわけでしょ?
⼀刺し、⼀刺し。こう縫うていくのでもね。本当に幸せになってほしい。無事に、つらいおもいせんといてほしい。それが全部、この⾐装にこもるわけや。
この布、端切。もう雑⼱にしかならん。それをまだね、なんかに使うんよ。布⼀枚がものすごい貴重やったいうことや。

⼀着⼿にとって膝の前に広げ、眼を落とす。
ころもの姿形をした本を開いたかのように、その細部に込められた意図から⺟の⼼情を読み、袖を通した⼦を感じ、その時代の⼈の常識や⾃然との関わりを推察する。⼀着⼀着、⾐が経た歴史を読み込んでいく。

【 お裾分け 】

裾って折り返したりしてるから、ちょっとでも切れる部分を切って、繋ぎ合わすねん。そうして⼦どもの着るもんにしたんや。そうせんと布がない、いうことやね。

【 刺し⼦ 】

(底が)ものすごい分厚い、分厚い。せやなかったら痛いよ、⾜。柔らかい柔らかいときやろ、⾜が。ちゃんと親指のところ、全部、刺し⼦して。物が当たったりしたときのためにねえ。せやから、守るんよ。なんとしても守りたいんやから。

【 背守り 】

魔除けや。⼤⼈でも背中は危ないんやけど、特に⼦どもはふらふらしよるから、悪⻤悪霊悪魔が背中から忍び寄ると。それはえらいこっちゃいうて、こういうの付けたわけや。
⾦のない家は松葉を突き刺しとったんや。
なんか背中は守るもんやというイメージがあったんやね。

【 絽の着物 】

これはお⺟さんが花嫁のときに持ってきたんか。まあ⼦ども産んでまもなくか、亡くなってんねん。だから、お⺟さんもあんまり袖通してないんよ。それが孫に引き継がれたんや。お⺟ちゃんはもうおらへんねん。
「なんでそんなこと、源兵衛さん断⾔するんや」⾔うかもしれんけど。いやもうこれから語りかけてるんよ。
⾐から匂うてくる、⾹ってくる、⾒えてくる、聞こえてくる。

語りながら⽬に涙が溜まっていた。⾐の背後にある母の⼒に驚き、揺さぶられ、畏怖の念を抱き、時に慰められながら⼦ども服を蒐集してきたのだろうか。
誰も買わなければ燃やされていたかもしれない。
源兵衛さんは⾃分の⼈⽣とまったく関係のないとある家庭の先祖の着たものを家に迎えいれて、⾐の向こうの彼らを⾒ることと⾐の向こうから彼らに⾒られることの円環に⼊り込んで、先祖がどう生きたのか紐解く役割を⾃ら引き受けたように思えた。
絽の着物について語り終えると、珍しく体調が悪いとのことで撮影は中断した。弱っていたことで⾐を読む感性が⼀層研ぎ澄まされたのか。それとも⾐を読むために弱くなったのか。源兵衛さんがモノに宿る世界に合わせて⼼⾝を調律しているような気がした。

陽が傾いで中庭に射し込む光が縁側を越え、奥座敷の畳に照りつけていた。その光と影の交錯する⼀⾓にカメラを据えて、⽇が暮れるまで⾐と向き合おうと決める。

いまの⼈は⾃分がモノを⾒ていると思い込んどるけど、
以前まえは逆やった。
本来はモノにヒトが⾒られているんよ。

「若くして死んだ⺟親のもん」だという絽の着物を、強烈な陽射しの中に広げる。その細かな織りの影が光に透けてちらつき、時折、⾵で⾐が波打ち、膨らむ。その震えのような動きからか薄い⽪膚のように⾒える。息をしている⽣き物の気配がする。このみずみずしい⽣彩を帯びた⾐から、この世への未練を感じとるのもわかる気がする。遠くから⾵鈴の⾳が聞こえてくると、よけいに死を間近に感じた。
ここから先は眼だけで⾒ることができない。
眼がモノを分別する以前の眼になって、はじめてモノを⾒るように眼で触れて、⾒れば⾒るほどにそのモノがなんなのかわからなくなるように⾒ること。眼の⾏き先を決めずにモノの中で迷⼦になること。そうすることで撮影技術による功利的な選択を⽌めて、そのモノが剥き出しになる位置に⼨分の狂いもなくたどりつかなくてはならない。
この屋敷の伝統構法で造られた空間を抜ける⾵や、中庭から射し込む光や、⾵鈴の⾳や、数百年も前に縫い繕われた無数の⼦ども服を〈撮れない〉ところからはじめる。この空間のすべてが⾃分よりもずっと強く在り、⾃分はただそれらの間にかろうじて揺蕩たゆたっている受容体のようなものに過ぎない。〈⾒る〉という能動性を徹底した受動性へと反転させて、まわりのなによりも弱くなり、その弱さを⼿綱に存在の井⼾の底に降りていくことで、モノのもつ響きを直接に感覚し、忽然と出会い直す。そこでは⾒ることが同時に⾒られることであり、⾒られることは同時に⾒ることでもある。

「⾃分」いうんは空気みたいなもんや。
鏡を覗き込んでもおらん。在るか無いか。かろうじて在るかもしれない。そのくらいの現象や。そやろ?

⻄陽が翳り、⾐の⾊が鎮まって、やがて中庭は真っ暗になった。
その夜は奥座敷に布団を敷いて⼦ども服と並んで眠った。

 
 
|人に潜る|いのちの被膜|京都 (9月16日更新)につづく

|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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