草日誌

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2012年9月4日

奇蹟の水

『奇蹟の水』(オロフ・アレクサンダーソン)という、ヴィクトル・シャウベルガーの生涯を描いた本を読んでいます。
シャウベルガーについては『自然は脈動する』(アリック・バーソロミュー)という詳細は評伝がありますが、ぼくがその存在を初めて知ったのはライアル・ワトソン氏の『アースワークス』という本に収められた「水の奇蹟」という文章からでした。
シャウベルガーがおこなった実験や発明については、大きく評価が分かれるようです。というよりも「様々な理由から」あえて「評価しない」という判断をする方が多いのかもしれません。そしてその様々な理由の多くは「今現在の世界観や価値観、経済の枠組みを危うくするから」というものではないか、と思います。
エビデンスベースト、あるいは数値化数量化されないことには価値を認めないという世界。人の営みは過去から未来に向かって右肩上がりであるという経済が陥っている信仰は、科学や哲学においても有効なようです。いまを生きる自分たちの知見が、過去のいつよりも優れて射程も長い。そう信じる中で、私たちは過去の人びとが経験から行ってきたたくさんのしきたりや祈りの形、あるいは生活智と呼ばれるものを、ずいぶんとたくさん捨て去ってきてしまったように思います。
次に引用するような文章を読むとき、すくなくとも僕は、ほんとうに大切なことを失くしてしまったのではないか、産湯ごと赤児を流すような過ちをしてでかしてしまったのではないかと感じます。
右肩上がりを信じて、小さな家族や学びの場でまで「前年比+」というわかりやすい幻を追いかけているうちに、人間はこの星で生きる上で忘れてはならない大切な約束事を忘れてしまったのではないか。この世界のルールブックを見失ってしまったのではないか。
そう思うと、比喩ではなく、総毛立つような戦慄を覚えます。
もう遅いのでしょうか?
まだ間に合うと信じたい。
すくなくともここ1、2年の生活実感では、このような感覚を共有できる人は確実に増えているのではないか、と思えます。どうでしょう。

「脱穀場を通って奥に年のいった農民がいた。彼は古風で趣のある歌を歌いながら、3、4杯のバケツほどの大きさの、木製の樽に向かって立っていた。
 そして、大きな木製スプーンで樽の中身をかき混ぜていた。彼の歌は本当の歌ではなく、むしろ、音色に富む音階であり、裏声からダブルベースの範囲に及ぶものだった。
 樽の上で屈みこむようにして歌っていた。樽の中に響くように大きく歌っていたのだ。音階が上がるときにはスプーンを反時計方向に回していた。逆に声を低くするときには、スプーンの回転方向も変えていた。」(オロフ・アレクサンダーソン『奇蹟の水』遠藤昭則訳)

この農民はこうやって水を生かし、土を生かして、ほかの畑の数倍もの収量を得ていたといいます。
ここで、この奇妙な子守歌を聴かされた水に何が起こっているのか。
少なくともぼくは、そこで「水に何かが起こっていた」と考えます。
その水に起こっている微細な変化を、共感と共に感じられる精妙さを身につけたいと思い、暮らしています。

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