草日誌

草日誌

2012年10月10日

かくれ里から

昔は薬草も、染料も、すべて神のなす不思議なわざとして、信仰の対象になっていた。虚心に考えれば今でも不思議なことに変わりはないはずだが、人間の力を過信するあまり、そういうことは非科学的な、野蕃な思想として片付けられてしまった。が、ほんとに野蕃なことだろうか。私たちはもう一度そこから出直すべきではないか。原始宗教に還れというのではない、そんなことは不可能にきまっているが、私たちには、花一つ、種一つ、創造できないのを思う時、もう少し謙虚な心に還って、自然の語る言葉に耳をかたむける必要がありはしないか。人間不在とか疎外とかいう現代の不安は、すべて人間過信が生んだ結果に他ならないと私は思う。
(『かくれ里』所収。1969年、白洲正子59歳の時の文章)

白洲正子さんの『かくれ里』に収録された「薬草のふる里」という文章の一節です。
このところ近江での仕事が続いていることもあり、再読しています。そして、この本のなかに思いのほか土地の持つ力や自然への言及が多いことに気がつきます。

聖地は遠くに探しに行くものではなくその足元の大地に見つけるものだ。遠くまで行くのは、いわゆる聖地に出会うことでそこに特有の力の流れ方を憶えて帰るため。からだで覚えたその力のあり方を、普段暮らす場所で探す。聖地で覚えた感覚を、そこにある微細な力を見つけるために使う。
そうすることで、今ある場所に小さな聖地が生まれる。
小さな聖地を日々見つめ感じることで、その力の、どちらかといえば「強さ」よりもむしろ「濃やかさ」が見えるようになる。そういう意味でいえば、聖地とは単なる土地、場所のことではなく、その存在を感じる自分と対になってあるものといえるかもしれない。
読みながらこんなことを考えていました。

それにしても、高野山、吉野あたりへの思いが募ります。
ああ、天野を訪ねたい。

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