草日誌

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2018年10月18日

第4回 映画とごはんの会
『うつわ—食器の文化』

信陽堂では、
民族文化映像研究所の映像アーカイブを中心に映像作品を上映する会を開催しています。

第4回の上映作品は『うつわ—食器の文化』です。

日時 11月10日(土) 19時上映開始(開場は18時30分)
会場 信陽堂アトリエ(文京区千駄木3-51-10-1F)
参加費 3000円(税込み、ワンドリンクと軽食付き)
定員 10名

ご希望の方は shinyodo@me.com まで、件名を「上映会 参加希望」として、氏名、連絡先をお送り下さい。
のちほどこちらからご返信さし上げます。

この作品は民映研の第4作、若い作品です。
日本各地を訪ね歩くなかで出会ったさまざまな「うつわ」の姿。
多様な材料やつくり方から、日本に生きてきた人々の「くらし」のあり方が見えてきます。

どの作品にもかならずと行っていいほど「食」のシーンが登場するのが民映研作品の大きな特徴のひとつですが、
この作品は民映研の「食」への好奇心がかなりピュアな形で表出した作品とも言えると思います。

そしてもうひとつ注目すべきは、音楽を林光が担当していること。
ほとんど劇伴(いわゆるBGM)をつけない民映研の作品の中で、オリジナルの音楽がついているのは非常に希有なケースです。

41分の映像をいっしょに観て、大いにおしゃべりしましょう。

予告篇はこちらでご覧いただけます → クリック

「映画とごはんの会」は
作品の上映と、そのあと1杯のお酒とおつまみをご用意した会です。

1)自己紹介は必要ありません
2)感想も求めません
とはいえ、映画を観たあとには浮かび上がるいろいろな思い、疑問があると思います。
ゲストに、民映研の創立メンバーでこの映画の撮影も担当した伊藤碩男カメラマンと、毎月南青山で民映研の映像を連続上映している「シュハリ」( @ShuHALLI )から箒有寛さんをお迎えします。
湧きあがる疑問には、博覧強記の伊藤さんが驚異の記憶力をもって答えてくださるはずです。
おいしいお酒と肴とおしゃべりをに楽しみましょう。

おつまみとごはんは「たまや」が担当します。

『うつわ—食器の文化』(民映研作品総覧より転載)

1975年/41分/近畿日本ツーリスト日本観光文化研究所委嘱
全国26カ所で撮影

【作品解説】
沖縄の西南端、与那国島。私はここでふしぎなうつわを見た。クバの大きな葉で作ったなべである。木の葉のなべが湯もわかせば、タニシやフナも煮えるという。水が入っている限り葉は燃えないと島の人がいった。一枚の葉にも思いがけない働きがあり、それをうつわに仕上げる人間の知恵。私はそれを見て歩こうと思った。

世界でもっとも古く発生したといわれる縄文土器。私は縄文土器というと、奇怪な装飾のある大型の土器しか頭になかった。しかし土器にも小型のわん型をしたものがあった。いまから六、七千年前、すでにあった小型の土器は、まさに現在の食器の祖型だ。縄文時代、すでにヒエやアワがあったという。穀物は煮方がむずかしく、底はこげついても上のほうはカユになる。熱いカユ状のものを熱いまま盛り分けて食べるには、こっぽり深いわん型か鉢型でなければならなかった。

北海道日高地方。私はアイヌの友人から古いアイヌのうつわは、木か木の皮で作ったと教えられた。木の皮を折って水気のもらないおわんができる。また、煮るなべは、鉄が入る前には、フキの葉などを使ったという。私は沖縄のクバの葉のなべを思い出した。それに、青森でみたヒバの木の曲げわっぱ、アイヌの友人がみせてくれた木の皮のわんと、使う材料といい技術といい、なんと似ていることか。鉄の刃物の登場と、手びきロクロの出現が木を深々とえぐることを可能にした。日本で米が作られるようになってからも、庶民はヒエやアワのかゆ、野草などをまぜたカテめしを食べていた。うつわは、こっぽり深いわん型でなければならなかったのである。

木には目に見えない無数のすきまがある。すきまを埋め、うつわを強くするために、漆を塗る、しぶ」を塗る、血を塗る、はるか縄文時代からあらゆる工夫がされてきた。下地には、天然のタールをも使ったという縄文時代から、さまざまなものがまぜて使われてきた。山の土、木を焼いた灰。

色もまた、うつわの大事な要素である。漆にススや鉄分をまぜて黒くし、朱をまぜて赤くする。これも縄文時代からの工夫だった。縄文時代からの土器の流れをたずねて、伊勢外宮の土器づくりをみる。神に供える食器がすべて土器というのは、木のうつわが登場する以前の古い姿であろう。土器は、ひもづくりの手法だ。ひもづくりで作った土器を叩き板でたたきしめ、形をととのえるのが、いまも唐津に伝わる叩きの技法だ。

日本に焼きものの窯があらわれたのは古墳時代といわれる。窯の発達は、自然のうわぐすりという思わぬものを生んだ。窯の行きついた最大のものが登り窯である。しかし陶磁器の茶わんが使えたのは、江戸の末でも、せいぜい下級武士までであったろう。
 
この旅で、私は木のうつわと土のうつわは、想像以上に深くかかわりながら進んできたらしいと気がついた。たとえばロクロの作業もその一つだ。また、はるかな時代の中国や朝鮮とのつながりも大きい。日本で約四百年前はじめて磁器が作られたのは、
朝鮮の人李参平によってである。

遠い昔から今日に至る日本のうつわ。それを成り立たせたゆたかな木、すぐれた土、豊富な水、そして人々の知恵。
旅をつづけながら、私はそれを思った。
©民族文化映像研究所

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『からむしと麻』

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