2012年3月4日
昨年、小さな作品集『いちにち いちにち』の制作をお手伝いさせていただいた柏木江里子さんの「グラフィックデザイナー、柏木江里子さんの仕事 巡回展」が東京で開催されています(8日まで)。
柏木さんとはグラフィックデザイナーとして、アノニマ・スタジオ時代に1冊ご一緒いただきました。井上由季子さんの『文房具で包む』という本です。そのあたりのことは、こちらに書きました。
「立ち姿の印象 柏木江里子さんのこと」
「いちにち いちにち」
昨年秋に京都で井上由季子さんが営むギャラリー「モーネンスコンピス」で回顧展が開かれました。『いちにち いちにち』はその展覧会に合わせて作ったものですが、ぼくは都合がつかずに伺えませんでした。実際に展示を見てきた相方やほかの方々の話を聞くだに、いけなかったことが悔やまれました。今回東京での巡回が決まり、遅ればせながら柏木さんのお仕事のある部分を見ることができました。
会場では、毎週のように病院に柏木さんを訪ね、最後の日々を併走した空間デザイナーの真喜志さんや、『いちにち いちにち』を一緒に作った青木美詠子さん、川原真由美さんたちとゆっくり話すことができました。
展示の冒頭には、こんな言葉が掲げられていました。
作る人がいて、ものが生まれる。あるいは見る人がいる。
聞く人がいる。食べる人がいる。作る側と受ける側。
デザインは、その間にある繋ぎ役に思います。
そのものがおかれた状況を理解し、
目的に合った表現方法を工夫して提案することが
デザイナーの仕事と考えています。
商品につく小さな栞も、大きな看板も、
そこにある目的を到達させようとする限り、
デザインに取り組む姿勢は、みな等価です。
そして柏木さんの言葉は続きます。「できるかぎり多くの方と出会い、共通言語を探していきたいと思います。」
展示には、仕事のメモやスケッチがたくさん展示されていました。それら手書きの文字や線から、彼女が人と出会いをいかに大切にしていたかがしみ出てくるようでした。
「でもね、手間をかけるほどお金にはならないのよ」
柏木さんが自嘲するように話す声が聞こえるようです。
それでもなお、引かれた一本一本の線には迷いもおざなりの気配もない。
「デザインに取り組む姿勢は、みな等価です」が、日々の営みとしてあったと、よくわかりわかります。
この言葉を読みながら、つい3月1日に吉祥寺の「キチム」で開かれた音楽家の原田郁子さん(クラムボン)と写真家の川内倫子さんのトークイベントでのことを思いだしていました。
歌は曲が完成しただけでは、歌にはならない。
聴いてくれた人がいてはじめて歌になる。
写真も、見られてはじめて写真になる。
料理も同じ。
作る人がいて、食べられて、
「おいしかった~」と思う人がいてはじめて料理になる。
その関係が大切なんじゃないのかなあ。
歌も写真も、関係性がないと表現にならない。
表現者は、相手がいてはじめて
「何かを作った」という達成感を感じられる。
それがないと、けっこうぼんやりとしていて、
自分が何をなしえたのかの実感が持てない。
郁子さんの「ある鼓動」という曲に倫子さんが映像をつけました。その共同作業を経て、たがいの表現がひびきあう経験をしたとふたりは話していました。
「ひびきあう関係」
そこに「生き生きと生きる」ということがある気がします。
生の充実は関係性の中にこそあるのものなのかもしれません。普段の暮らしの充実も、仕事の充実も同じだと思います。自分がいることが、誰かに求められていると実感すること。そこにいてほしい、そこにいていいよ、と思ってもらえる。それだけで、人は生きていけるのではないかなあ。
自分の作業が役立っていると思え、そのことが認められたときにはじめて生まれる充足感。それが制度の中に、やり取りの中に、日常的にある仕事場は自然と充足感にあふれてくるのでしょう。
それを何と呼ぶのか、いまは言葉を持っていません。
でも、人という不思議なものを生かして動かしているのは、ごはんでもカロリーでもビタミンでもなくて、そういう空気のような充実感なのではないかと、最近かなり真剣に考えています。遠くにいても、手で触れられなくても(場合によってはすでに世にいなくても)、「その人がよろこんでくれる」そのことだけで生きていける。そのことが自分を栄養してくれる。
「生き生きと生きる」
あえて言葉にすると身も蓋もないないけれど、生き生きと生きることは、実は意外にむずかしかったな、というのが45歳になろうという今の実感です。
「生き生き生きられないため息」みたいなものを含んだ生き方が大人であるような価値観がこの社会には確かにあって、社会にも会社にも求められていたし、自分でも望んでそんなサークルのメンバーになろうとしていたようなところがあります。
「酸いも甘いも」とか「本音と建て前」とか「表も裏も」とか「清濁あわせ飲む」とか。
大人として生きるには、そういう二面性を使い分ける世知を身につけないといけない、と思い込んで生きてきたように思います。
生き生き生きられないため息、言い換えれば「言い訳を含んだ生き方」とでも言うのかなあ。社会に出てから20数年、ずっとその「言い訳」を抱えながら生きていた。でも最近思います。それって酒やタバコを吸うことで何か「大人のような生きもの」になれるのと同じ、じつはあんまりからだによくない「気分」程度のことなのじゃなかろうか、と。
郁子さんと倫子さんのトークでは、倫子さんが被災地で撮影した写真に郁子さんがその場で歌をつけました。そして最後に、二人が作った『ある鼓動』のプロモーションビデオが流されました。
その映像をただの観客として素で感動して見ていたふたり。そのふたりの姿を感じて、じーんとするぼくたち。
会が終わりかけた時に、どちらともなく出た言葉がありました。
災害があっても、戦争があっても、
その中にはきらきらした瞬間もきっとある。
その悲惨ときらきらの間でこれまで人は生きてきたし、
これからもそうだろう。
だから、目の前に広がるこの世界の美しさを
しっかり見つめて、それを伝えていきたい。
その美しさを見つめる目を磨きつづけるには、大人気分でため息など吐いている時間はありません。小さなひかりの粒が虹色に光るのを見逃さないように、からだ全部を使って生きていかないと。