草日誌

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2011年10月26日

ロルフィングで感じたこと
session 9

一週おいての9回目。
いよいよあと二回でまとめになる。
今日は左側を下にしての横向きにベッドに。
手と足にそれぞれ抱き枕をしてスタート。
田畑さんの右手は仙骨に、左手は後頭部に添えられる。

まず感じたのが、鼓動。
ここ数回はいつもそうだけれど、はじまって30秒ほどで鼓動が大きくなる。
ペースが速くなる訳ではなく、一回一回の鼓動が強く感じられるようになる。
そこがからだモード(おお、懐かしい言葉!)の入り口のようだ。

喉仏の奥の方が、広がっていく。広がりが、食道(気管かな?)をゆっくり降りてゆく。
そっと触れながらこちらのからだを感じるだけだった田畑さんの手に、動きが加わる。
どんな動きなのかはうまく書けないけれど、からだの実感としては、自分が小舟になって田畑さんに漕がれている感覚だ。
オールではなく、櫓で。
つまり動きとしては前から後へ何かを搔き取って進むのではなく、うねりの動きを推進力に換えていくような。

ぴく、とからだが反応する。
その時にはすでに手は触れられておらず、
あとはオートマティックに進んでいく。
背骨が前後にゆっくり動く。背骨の上部と下部では動きのずれがあるために、たわみのある動きになっている。
そのあいだに、ぐぐーっと表側の深い腹筋が収縮して、からだがまあるく縮む。
基本はその繰り返しだが、ペースを速めたりゆっくりにしたりしながら、続く。

途中、股間に変化が起きる。これは摩擦による反応だろうけれど、自分ではどうしようもない。
少し恥ずかしい気持ちが動くが、すぐに脇へやる。
そんなことを感じたりしているうちに、動きはさらに大きくなり、徐々に上に移動している。
移動するに従い、その反応も収まっている。

たわみながら、収縮をあいだに挟みながらの動きは、腰から胸に移動している。
セクションの境目なのか、いったん動きが収束しそうに見える一瞬があるが、またすぐに次の動きに移っていく。
呼吸はどうにか自分でコントロール出来ているが、さすがに腹部の収縮がピークを迎えるたびに、「ぐぐぐぐぐぐぐぐぐ」と小刻みな呼気になる。
胸から頸に、頸から後頭部に昇っていき、静かになる。
なりかける。ふう、と深く息を吐き、終わりに構えようとすると、今度が脊柱を軸にしたひねりの動きがはじまる。
抱き枕を抱いている腕も足も、そのひねりの動きにすっかり翻弄されている。
「痙攣」と「収縮」と。腰から頭へ昇ってきたときには基本はその二つの動きだったが、ひねりがはじまると、その二つに「伸張」が加わった。腕が、脚が、様々な方向にねじ曲げられ、伸びる。
ぐぐぐ、っと身を折り曲げて収縮したと思うと、方向を変えて、また伸びる。
意識ははっきりしていて、田畑さんと話をしている。
「からだは何をしようとしているんでしょうね?」
「ふふふ」
そんなやり取りを挟みながら、お互いにからだの行く先を見守っている。
そのくらい意識とからだが離れている。
時折自分の指先もう一方の腕に触れたりすると、まるで誰かの手が触れてきたように感じる。
足先も同様で、一方の脚が指先を使ってもう一方の脚を押しやったりするのを
「あ、こっちの脚が邪魔なんだ」
と感じていたりする。

このひねりのうごきが加わってからも、数波にわたるピークがある。その都度「もうおしまい?」と思うが、すぐに方向を変えて次の動きにつながっていく。

今回自分のからだの動きを感じながら考えていたこと。
昆虫がさなぎから成虫に羽化するとき、本能のままに動いて成体に変化する。
蟹などの甲殻類の脱皮も同じ。
きれにいに足先の一本一本、触角の先まで、古い甲羅をこわすことなくそれを脱いでしまう不思議。
たぶんいま自分のからだに起こっていることは、そんなからだ本意の動きなのだろう。

からだの方は、ひねりどころか、回転の動きに移ろうとしている。
すでに抱き枕はつきはなして、ベッドの上でからだの向きを変えそうな勢いだ。
「これって、寝相ですね」
と思わず声が出る。
起きたときに気がつくと頭と脚が逆になっているような、そんな寝相の悪い感じだ。

からだは狭いベッドの上での方向転換を諦めたらしい(この「らしい」というのが、今回のからだと意識の距離感)。
こんどは四肢をおかしな方向にねじ曲げはじめた。
(おいおい)と思う。何をしようというのだ。
手足がばらばらにねじまがっていく。すでに自分がどんな格好をしているのかさえ分からない。
「サルペトリエール」
と思う。あの、19世紀パリにあった精神病院の患者たちの写真が、浮かぶ。
そうか、彼らはからだの要請にしたがって、意識で監視をはずした状態でいる人たちなのだ。
だから自然とからだはあんな格好になってしまっていたのか。
そう思う。
ここにいたって、精神を病んでいる、と言われる彼らの方がからだの感性という点で言えば遥かに優秀な何かを持っていたのではないか。そんなことをぼんやりと考えている。
美しい、醜い。そういう価値観はあくまで左脳的な価値観だ。
からだの世界においては、まったく違う価値観が支配しているはずだ。

と、いつしか動きは止まっている。
意識が働いて、止まってしまったのかもしれない。

「では、ゆっくりとからだを起こして座ってください」
ベッドの上でからだを立てる。
上半身の左右に、明らかに差異がある。
自由に動き回っていた右半身の伸びやかさにくらべ、左の胸から肩にかけては、今にもつりそうなほど固くなっている。
そう伝えると、田畑さんは左の足を少し開き、甲に指を当てる。
と、胸が収縮をはじめる。
脇の下が、きゅっと締まって、ゆるむ。
それを繰り返している。

先ほどベッドで横になっているときに起こっていた動きが、からだを起こした状態ではじまる。
これには少しびっくりした。
どうなるんだろうと見つめていると、右の肩をきゅーっと上げて、下げて、を何度か繰り返して止まった。
余韻なのだろう、からだがゆっくり左右に揺れている。
「もう止まると思います。余韻でしょうから」と言う。
言ったというよりも、宣言。
少々時間も気になりはじめていたし、この揺れから活元運動に入ったらちょっと困るな、と思いからだに少しだけ力を入れたのは事実。

そして今回の「動き」は終了した。
思わず「ずいぶんな大仕事をした気分です」と言ってしまう。
背中にはうっすらと汗をかいている。

立ち上がって歩く。
全身が一本の細くて強い糸に支えられているような感覚がある。
一体感。
ん?
どこかに違和感がある。
目だ。視界だ。視覚がからだに比べて少し遅れてついてきている様子だ。
距離にして10センチ弱、7〜8センチとと言ったところか。
その遅れが全体にちぐはぐな印象を与えているようだ。
そう訴えると、田畑さんは頬骨と後頭部に手を沿えて顔の角度を調整し、骨盤の角度も微調整する。
「どうですか?」
改めて歩いてみると、確かに目の遅れは気にならない程度になっている。
顎を少し引いたことで、からだの軸と目の線が近くなったと言うことなのだろうか。

実は今回、括約筋に動きが現れるのではないか、と少し考えていた。
前の晩、眠りに入る直前に、不意に肛門周辺の筋肉が動き出した一瞬があったからだ。
もちろんそんな経験ははじめてのことで、翌日に控えたロルフィングセッションの予感がからだを動かしたのではないか、と思ったのだった。
残念ながら、今回のセッション中、そのような気配はまったく現れなかった。

10回シリーズの9回目が終了した。
残すところあと一回です。

ますますからだは奥深く、
行く先はまったくもって見えない。

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