草日誌

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2011年10月25日

つなぎ直す旅——塩竈

塩竈から帰ってきました。
震災後に仲間たちとはじめた「一箱本送り隊」の活動、
「塩竈ブックエイド」は22日、23日のプログラムを無事に終了。たくさんの地元の方が本を捜しにきてくれました。
その様子は一箱本送り隊のブログに書かねばなりませんが、その前に少しだけ、こちらに書きます。

3月11日の大震災と津波、原発の事故。
改めて書くまでもないことですが、あの日を境に世界の見え方が一変しました。
いままで当たり前と思っていたことが当たり前でなくなり、
変わらないと思っていたことが、ほんとうはそうではないことを教えられました。

今回行ってきた塩竈で、僕は生まれ育ちました。
これまでも会話の中で塩竈出身であること、「しおがまさま=塩竈神社」というとてもすばらしい神社があること、港町であること、などなど話すことはありました。
しかし、二十歳前に街を出て以来、過去の場所として蓋をして、思い出として語る以上のかかわりを持つことはありませんでした。
3月11日、出先で地震に遭い、誰かが流してくれているユーストリームの画面で、沿岸部を津波が襲うのを見ました。
防砂林をなぎ倒し、田畑を黒い波がなめて、家々が流されていく映像でした。
その瞬間、僕はすでに諦めていました。
実家は港まで300メートル足らずの場所にあります。塩竈の映像こそ流れませんが、あの規模の津波が街を襲ったら実家のある港湾地区は確実に波にのまれるでしょう。家のすぐ裏にお稲荷さまが祀られた小高い山があります。運がよければ家族はそこに逃げたでしょうけれど、ちょうど逃げられる場所にいたかどうかもわからない。
そんなことが一瞬に頭を過ぎります。そして、諦めました。
正確に言えば、考えるのをやめました。助かっているかもしれないし、もうすでに死んでいるかもしれない。そのことをいま思い悩んでもしかたない。そういう気持ちでした。

さいわい僕の家族は無事でした。そのことは確認出来ましたが、塩竈の街の様子はなかなか知ることができませんでした。
テレビや新聞で塩竈の様子が報道されることはありませんでした。結局港に津波が押し寄せていた事実をあのあたりにしたのはひと月以上経ってから、YouTube上に投稿された地元の方の映像からでした。

歳を重ねれば、親しみを抱く土地は増えてゆく。
親しい友人も家族も、新しくできる。
でも、自分が生まれた土地は一カ所だけ。
自分にいのちを授けてくれた両親はひと組だけ。
そんな当たり前のことを、忘れていました。
津波に押し流される故郷の風景を見ながら、自分が生まれ育った土地はここ以外にないのだということを、それこそはらわたをえぐられるような感覚とともに思い知っていました。

今回、東京の仲間たちとはじめた「一箱本送り隊」が塩竈で本のイベントをすることになったことは、もちろん偶然ではありません。しかし、では自分が決めたことか、といわれればそうでもないように感じています。
ボランティア活動の意義、意味、立ち位置。関わる人がそれぞれどこに意識をフォーカスしているのかで、同じ活動に参加していても当然そこで作られる人間関係も見える風景も違ってきます。
僕にとって今回の「塩竈ブックエイド」は、故郷の街との関係をつなぎ直すためのものだったように感じています。
5月に塩竈に帰ったとき、塩竈神社への参道から街を見下ろしました。その時見えたのは地震と津波で表面の虚飾をはぎ取られた、素顔の塩竈の街でした。この街が、 土地の起伏や入り江の形から しおがまさまを中心にできた街であることが自然に理解出来るような風景でした。
でももしかすると、虚飾をはぎ取られたのは僕自身の方だったのかもしれません。
どこか他の街と比べることなく、自分の理想や思いと重ねることなく、あるがままの故郷の街を見ることができるようになったのかもしれません。それまで、街を離れて20数年の時間と震災が必要だったのかもしれません。ここから自分とこの街との関係が新しくはじまるのかもしれない。
「塩竈ブックエイド」を開催しながら、会場に貸していただいた「旧公民館(公民館本町分室)」は、小学生のころ図書館が入っていた建物です。はじめて本を借りた場所で一日すごしながら、そんなことを考えていました。
(写真は、旧公民館から谷をはさんで「しおがまさま」のお山を望んだ景色です)

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