草日誌

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2011年9月28日

ロルフィングで感じたこと
session 6

一週あいだを開けてのセッション6回目。

今日は仙骨へのアプローチ。
「仙骨を自由にすること」が今日の目標との説明を受ける。
まず立ったまま体育の時間の「休め」の姿勢を左右の足で試す。右足を軸にした時がよりも、左足を軸にした方が広がる感覚。それを確認してベッドへ移動、うつぶせに。

先生のタッチはあいかわらず非常に微細。
太ももの外側、脛、頭頂部、頸に軽く触っていく。

途中、左の脇腹に触れられている時に、子どもの頃のぜん息の発作の時に処方されていた静脈注射の匂い(ネオフィリンとか)や液体がからだに入っていく感覚がフラッシュバックする。薬品独特の、からだに入ってくる時にからだの内側から匂い立つ感覚、血管組織に吸収されていく時の何ともいえない抵抗感。そして液体の冷たさ。

骨盤に触れられている時に、連動するように肩胛骨が広がっていく。
声を出さずにおもしろがっていると、「つながろうとしていますね」と言われる。
肩胛骨の重さを感じているうちに、すでに手が離れている骨盤が動いている感覚が起こる。
「もしかして、骨盤が動いていますか?」と聞くと、「呼吸に合わせての動きは見えます」とのこと。
外から見えている様子と実感にずれがあるようだ。
最初に感じたのは、パンツの内側とお尻の肉がこすれて感触。
そのうちそれがもっと深いところからのものだと気づく。
お尻の肉の中の奥深いところで、なにかが動いている。
骨? 
骨には違いないのだろうけれどそれだけではなく、重くゴムのように弾力のあるものがゆっくりと、確実に動いている。

そのうち、鼓動が強くなる。
鼓動が早くなるというよりも、心臓の動きを強く感じる。
同時に頭のてっぺん(の髪の毛をごそっと持って)を誰かが引っ張り上げているように感じる。

心臓の感触に意識を集中すると、左脇の下から腕が一本胸の下に入っているように感じる。自分の手ではないのだけれど、その手を通して鼓動を感じている。
そのことを伝えると「その支えを感じていてください」と言われる。
そうか、支えられていたのか、と気づく。

顎が振動している。かすかに。
あえて言葉にすれば、「怖さ」の感覚を感じているようだ。
からだが、ため込んだ怖さを開放しようとしているのかもしれない。
顎の震えは、胸の底から来ている。
その胸の底の震えが、徐々にのぼってくる。
それにつれて、顎の震えも大きくなる。
少しずつのぼってきて、顎の先から顎の付け根の方まで振動が広がる。
「どんな感じですか?」
と聞かれて、
「これは怖さの感覚だと思います」
と答える。
「そのまま続けても大丈夫ですか?」と聞かれたので、
「大丈夫です」と答えた。
迷いはまったくなかった。

と。
からだに新たな動きが生まれる。
心臓を中心に、からだが「きゅーっ」とひねられるような感覚。
大きな手が、からだを「きゅーっ」とひねって「ぱっ」と離す。
きゅーっ、ぱっ。
きゅーっ、ぱっ。
その、ぱっ、の余韻が波紋のようにからだに広がっていく。
「どんな感じですか?」
今はまだ「動いてますね」としか答えられない。

気がつくと背骨を軸に、からだのどこかが左右に小さく揺れている。
最初は本当に小さな動き。
左右に骨盤が沈んで浮かんで。
動いているかどうか分からないほどの。
動きと言うよりは、やはり震え程度。
いつのまにか顎に感じていた怖れはなくなっている。

背中の動きは、自分の意志とはまったく関係ない。
小さく、大きく、うねりのように揺れている。
徐々にその振れ幅を拡げながら揺れている。
その動きの源を探ろうと意識すると、動きは小さくなる。
まるで消え入りそうな炎を見つめているようだ。
見つめると炎は小さくなり、視線をずらすとぼうっと大きくなる。
これは左脳と右脳のせめぎ合いだな、と思う。
動きに意識を持っていかないようにしながら、動きを感じる。
そのように意識をチューニングしていく。
すると、動きが徐々に大きく育っていく。

骨盤周辺からはじまった動きは、少しずつ背中をのぼってくる。
大きさ、幅を拡げながらのぼってくる。
頸まできたと思ったら、今度は背中全体の動きに変わる。
最初に感じたひねりの感覚も、大きくなりながらいまだに残っている。
時おり引きつるように右足が伸びて、左の腰が上がる。
胸の奥にあったひねりは、いまや大きく、その動きが目に見えるようになってくる。
古い車のアイドリングのように、大きな波と小さな波が混じり合う。
「どんな感じですか?」
「へんな気持ちですが、気持ちいいです」
「つながっているように感じますか?」
「(それはまだ分からないけれど)面白いですねー」
自分の意志とはまったく関係ないところで、これだけの動きがからだの底から生まれ出てくる。
つながろうとしているのかどうかは分からないけれど、それぞれのパーツが何かをもとめて動いているのは感じる。

からだと意識(頭)がはっきり分離している。
離れたところからからだを観察している。
ただ、外から見ている訳ではなく、からだの内側からの感覚ももちろんある。
ただ、とても距離はある。
会話する時だけ、口を呼び出して近くに来てもらって話をする。そんな感覚。

波。
うねり。
その中心が仙骨なんだろうか?

からだの動きはもう止まらない。
腰から背中をのぼって頸、頭まで。
大きなうねりが何度も何度ものぼっていく。
左右対称ではなく、捻れながら、手足、腰、背中、胸、ひとつひとつのパーツの存在を確かめるようにからだが動いていく。
とうとう頭までぐるんぐるんと動きはじめた。
同時に、足も回転運動を始める。
最初にふくらはぎ。
次に足の甲。
太もも。
それらがばらばらに、独自のペースでうねり、捻れ、回転している。
腰も、脇も、肩胛骨も、頸も、頭も、左右に垂らしている腕も。
それぞれが固有の周波数で動いている。
それがシンクロしていき、うねりの頂点でびくんと大きくからだを揺らす。
その時は骨盤が少し持ち上がる。

そういうサイクルを何度か繰り返す。
4回か、5回。

すでに動きはかなり大きく、
「そのように感じる」レベルではなくなっているはずだ。
しかも、人が自分の意志でコントロール出来る種類の動きではないだろう。どれほど身体操作を訓練しても、意識してはこんな動きはできそうもない。
それくらい、からが全体がばらばらに動いている。
ばらばらな動きではあるけれど、自分の感覚としてはそれは「壊れたおもちゃ」のようなばらばらではなく、一見無軌道にみえてもどこかで一本のつながりのある動きであるように思う。

すでに左脳には動きの根源を探らせることを止めさせた。
たぶん、それができていたのだと思う。
うつぶせになっているので視界こそ閉ざされているけれど、眠っているわけではなく、意識は非常に明晰だ。
そのきれいに澄んだ意識と、それとはまったく関係なく動き続ける両手両足、骨盤、背骨、肩胛骨、頸、頭。
気持ちいい。
からだを大きなうねりに預けながら、先生と話をしている。
「すごいですね、人のからだって」
こんな動きが内蔵されていることが、本当に不思議で面白い。
足の甲、ふくらはぎ、骨盤、背中、それぞれに中心がある。
それぞれが中心で、それぞれの都合で動いている。
ばらばらのようでいて、それぞれの動きを互いに感じているようにも思える。

途中、頭のてっぺんに触れられた。
ちょうど誰かに引っ張られていた感覚があった、その場所。

「こんな風に動いたら、みんな怖いんじゃないですか?」
それについて、答えはない。
はじめてこんな動きを体験したら、人は怖くなって動きを止めてしまうのではないだろうか。激しく見えてはいるけれど、ちょっと意識してからだに力を入れたら、すぐに消えてしまうような種類の動きでもあるのだ。
ぼくは活元運動を少しだけれど体験しているし、意識の監視がからだの動き、感性に蓋をすることも体験的に知っている。そもそもロルフィングを受けることも、からだを使ってに実験と思っているから、何が起こるのか楽しみで仕方ないのだけれど。
それにしても、とても人に見せられる動きではないと思う。
少なくとも、理性的な人の動きではないと思う。
意識がそう言っている。
それとは関係なく、からだはぐるんぐるん動いている。
野生の、生体エネルギーのかたまりとしての、自分の姿。
ある種の人たちは、これを性的エネルギーと言うのかも知れない。
グルジェフがあの舞踊の中でコントロールしようとしていたのは、こういうエネルギーのことなのだろうか。

ひときわ大きなうねりが足から昇ってきて、頭を何度も大きく左右に揺さぶった。
強制的に止めない限り、永遠に続くのではないか、と思われた動きが、それをきっかけに、しゅーっと収まっていく。
からだのうねりは、最後は骨盤に収束して、そしてとまった。

静かに上半身を起こし、ベッドに腰掛ける。
上半身の重さが座骨にすとんと落ちている感覚。
左右に首を振りながら部屋の様子を眺めると、
視界が開いている。
左右だけでなく、視野ではないけれど、上下方向にも世界が広がっていることを感じる。

立って歩く。
からだの推進力がスムースに足に伝わっている感覚がある。
最初に確認した「休め」の姿勢は、左右差があまりなくなっている。最初は左軸の方が広がると思っていたが、今となっては左が開きすぎだったように思える。今はコンパクトになった気分だ。

興味深いセッションでした。
田畑さんが言うには、誰にもこういう動きが出る訳ではないらしい。
出る人もいるし、出ない人もいる。
出たからいいという訳でも、出ないからだめ、という訳でもない。その逆でもない。
つまりは人それぞれ、そのからだの求めに応じて、ということだろうか。

セッションを終えてから、思い出した。
大人になってからずっと、
子どもが「高い高い」をしてもらうようなことを誰かにしてほしい、と思っていた。
誰かに持ち上げてもらって、ぐるんぐるんしてほしい。逆さにしたり振り回したりしてほしい。
今日の動きは、それに近かったのではないだろうか。
セルフぐるんぐるん。
いまの自分はこういう動きを求めていた、ということなのだろう。

人のからだって、すごいなあ。

この物体は自分のからだには違いないけれど、自分が知っているのは、意識してコントロールできると思っているのは、その中のほんの一部なんだ、ということを思い知らされました。
からだワンダーランド。
10年前に整体の本を編集していた時に、シリーズのコードネームとして使っていたことばを、いま身をもって実感しています。
まさに、からだワンダーランドです。

ただ、あの当時はそのワンダーランドの地図を作りたい、使いこなすマニュアルを作りたい、と思っていた。
いまはただ、そのワンダーランドを感じていたい。
感じるセンサーを曇らせることなく磨いていたいと思う。

10年たって、いろいろな時間を経て、半歩くらいからだに対するスタンスが変わったのかも知れない。

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