草日誌

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2015年9月15日

美しい光の射すところ

HIJISAI 2015
Official Guide Book によせて

美しい光の場所。
それが益子の最初の印象でした。
お陽さまが低い朝夕の美しさは格別で、
木や草、畑の野菜にも花にも、土や石にも、
すべてに光がしみこんでいくようです。
その様子を見ているうちに、
自分までも益子の光に満たされていく気がしました。
以来、まるで光に誘われるように益子に通うようになりました。
入り口はスターネットでした。
馬場浩史さん、和子さん、星さんはじめ
スタッフのみなさんとの交流が深まり、
農業や養鶏を営む方だけでなく、
木工、大工、陶芸家、染織、皮など
手しごとのみなさんとの繋がりができました。
馬場さんと益子で過ごす時間は特別でした。
お話ししていると、いつの間にか呼吸が深くなっていることに気がつきます。
耳から入ってくる言葉のひとつひとつが、
はっきりとした輪郭を持って像を結びます。
普段自分が考えていることのさらに先のことを思い、言葉を選んでいます。
あるアイデアを抱いて益子に向かい、
帰るときにはまったく違う風景を目の当たりにしている。
そうやって馬場さんと、益子のみなさんと囲炉裏や焚き火を囲み、
いったい幾夜を過ごしたことでしょう。
ある時なにかの話の中で、馬場さんがこう言いました。
「それはさ、透き通っていけばいいんじゃないかな」
はっと、目がさめた気がしました。
「透き通る」
それは、益子に通うたびに自分が感じていた印象そのものでした。
透き通るとは、何かを薄くして透過性を高めることではない。
逆説的ではあるけれど、層を重ねるごとに透明感を増していくものがある。
雲母の一層一層がさらに薄くなり、
層を重ねて輝きを増して、ますます明るくなっていくもの。
そういうものがあるかどうか知りませんが、未知の鉱物のようなイメージ。
それから益子を訪ねるたびに、
ぼくはそのような「透き通った光の結晶」を探すようになっていました。
それは西明寺であり、綱神社であり、雨巻山であり、百目鬼川であり、
里山の地面一面に敷き詰められた落葉であり、
稲穂が眩しい田であり、蕎麦の白い花であり、
軒につるされた大根の白であり、
土であり、窯であり、器であり
コーヒーやパンの焼ける香りであり、
夕方どこかからたなびいてくる薪を焚く匂いであり、
弾けるような笑い声であり、
終わることのない酒宴の温もりでした。
この土地に過ぎていった時間が、透き通った一枚の層となります。
美しい風景や人のいとなみの歴史も、それぞれが透明の薄片。
世代を超えた人の気配も、薄い雲母のひとひら。
透き通った層が幾重にも重なることで
より透明で見通しのいい空間が生まれる。
内側から輝き出すような、光に満たされた空間になる。
その光に人は誘われて集い、みずからもまた光となっていった。
古来この土地は、そうやって出来上がってきたのでしょう。
「土祭」は、その益子という土地の姿に触れる機会です。
透明の空間を、いっとき目に見えるようにした祭礼です。
その祭礼のために、
益子の人たちは日々のいとなみを、
より透き通ったものにしてきたことでしょう。
数え切れない夜を、呼吸を深くして、
たがいの言葉に耳をすましてきたことでしょう。
この100ページほどのこのガイドブックには、
たしかに益子の光が綴じられています。
ページの一枚一枚に、
この土地に暮らし、呼吸する人たちが触れた、
まぎれもない益子の光が綴じられています。

(このテキストは、益子で開催されている「土祭」のためのガイドブックに寄稿したものです)

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