草日誌

草日誌

2011年7月23日

「生きる」

この写真は、
倉本聰さんのドラマ『君は海を見たか』のシナリオのラストシーンの部分です。
引用されているのは谷川俊太郎さんの詩「生きる」。
このドラマのなかでその詩は大きな役割を持っていました。
ドラマの主人公は、腎臓に重い病を得た小学生の男の子でした。彼が入院した病室のベッドの上でこの詩を暗唱します。自分の病名は知らされず、まだ身体的な自覚もないけれど、漠然と、しかしはっきりしたコントラストを持って死を、つまり生を意識した少年が口にする「生きているということ」という言葉は、そのまま生身の言葉として15歳の自分に届きました。
この詩を、この言葉を自分のものにしたい。
そう思い、僕は、このドラマを見た翌日すぐに書店に走りました。
きっと、詩を積極的に読みたいと思った最初の体験だったと思います。いや、この時、この「生きる」を「詩」と意識していたかさえあやしい。とにかく、衝動的に、この言葉をもっと正確に知りたい、と思ったのだと思います。
今となってはあまりにも有名な詩ですが、全文引用してみます。

生きる  谷川俊太郎

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きてるということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

 *
今読み返しても、どきどきします。
生きるということが、
全的に肯定して賛美する訳でもなく、
かといって露悪的になる訳でもなく、
淡々と、営みの積み重ねとして書いています。
15歳の自分は、この詩のどこに心動かされていたのだろう。
44歳になった今、どれだけ自分に問い直しても15歳の自分は答えてくれません。
生きるということは、今日の自分を今日に残したまま明日に進むことです。明日の自分のことを今日の自分は知りません。日々、知らない自分として更新されていくこと。
だからこそ、淡々とした営みがいとおしく思えるのかも知れません。
夜が明けると、信陽堂は1周年を向かえます。

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