記事一覧
十代の終わり頃だった。 ひとり暮らしのアパートで宅急便の再配達を頼もうとダイヤルを押した携帯から宅配員の声が聞こえたとき、自分の名前をすっかり忘れていることに気がついた。 お名前は? そう二度三度くりかえすこととなった宅…
どこにでもある⽇常のありふれた場⾯に、長く悩まされてきた問いが溶解した⽇のことを思い出す。 娘のスイミングスクールに付き添ったときだった。 ⾒ていてね そう⾔われて蒸し暑い観覧席からプールサイドを⾒おろすと、…
夏の陽射しの強い⽇だった。 京都・室町にある帯屋の⽼舗、誉⽥屋源兵衛の奥座敷に屈み込んで⼤量の古い⼦ども服を畳に並べていた。広い屋敷のどこかの軒下から⾵鈴の⾳が聞こえてきて、中庭にカメラを向けると⾳もなく樹々…
⽇頃わずらわしく思っていたWEB広告が、なぜか⽬の⽚隅に残って履歴をひとつ戻る。⾒覚えのあるものがヤフオクで売りに出されていた。それはどの家にもあり、暗黙の内に〈売ってはいけない〉という了解がなされたはずのも…
そのままお宅に泊めていただき、吉野口の空気に馴染んでいった。それからぼくは「外で撮影をしましょう」と提案しておきながら目的地まで来てマイクを忘れたことに気付いたり、なんでもない道路を歩いていてなぜか遠くの車に…
3ヶ月後。奈良の吉野口を訪れると、萩下さんと旦那さんがおふたりで迎えてくださった。なだらかな山の裾に建つ小さな古民家に案内されて、その薄暗い土間から中に入ると床ではなく砂利石が敷いてあり、いくつかの作業机には…
神戸元町商店街の喫茶店の丸テーブルの上に黄き朽くち葉ば色いろのビロードの指輪箱が置かれて、その蓋の裏張の布に刷られた字を読むと、時間を遡るようだった。 ド ン モ ヤ イ ダ 左から右へ。それから、右から左へ…
【 うつる人 】 覚悟ができました。 男がこちらも見ずに言った。 映像を公にする覚悟のことだ。 完成からもう3年半が過ぎていたので、ぼくは自分がこの言葉を待ち望んでいたのかどうかすら忘れていた。 ドキュメンタリーを公にす…
眠る前、ある声を思い出した。 2014年の番組の撮影を終えた日に自分の奥深くに刻まれたその声の意味を、この夜ほど理解できたことはなかった。 あの日、僕はいわきのホテルで極度の疲労と達成感に満たされながら、取材…