草日誌

草日誌

2024年5月4日

人に潜る 第7話
「いのちの被膜」をめぐる対話
〈前編〉 

2023年夏、京都のこんげん兵衛べえにて。
短編ドキュメンタリー『いのちの被膜』はやまぐちげん兵衛べえさんからの依頼を受けて松井至が制作した作品である。そこで語られたころもをめぐる思考を深めるため、思想家のみずたかさんをお招きして上映と対話が行われた。その様子を〈前〉〈中〉〈後〉3回に分けて再録しました。
 
 

一、朽ちていく織物

清水__ちょっと圧倒されてしまったんですけど、あの端布自体はどのぐらいの数集められたんですか?

源兵衛__子ども服は、今は7、80着。
集めはじめたのが10年前なんですよ。ぼろも持っているし、古い原始布も持っているんですけれども、別にコレクターではないんですよ。「これは」というものだけなんです。

清水__なるほど。

源兵衛__集めだしたのは、今から思うと恐らく何かこう「こもっている」というか。

清水__ああ、思いがこもっている。

源兵衛__その思いがこもっているのをものすごく感じたんやね。
僕らの小学校ぐらいの時にはもう和裁が消えていたかな。女の子だけは授業があった。僕らのちょっと前まであったんとちがうか……ということは、もう昭和戦前大正明治なんて、みんな着物が縫えた。

清水__子どもの服は親が縫えた時代ですね。

源兵衛__縫うだけではなしに。
なかったら自分で織る人もいるやろうし。作っていたわけですよね。
そやから僕らでも友達の家に行ったら、もう着物を「洗い張り」言うて庭で洗うて、「しん」言うて竹を渡して、ほんで解いてまた縫って一枚にするわけですよね。それをまた乾いたら外して、そんでもう一回着物に仕立て直す。それを各家庭でやっていたわけです。もう本当に子どもの小さな着物を作るというのは、まあみんな器用にやりましたから。
僕らが小さい時でも、子どもに対するその母親の思い、「出産は命がけや」というのは残っていました。今あんまりないけど。確率的に子どもが死んだり、母親が死んだりというのは結構あったわけですよ。

清水__産む数もすごかったし、生涯でもう十何人産むとか。

源兵衛__そうそう。

清水__お裾分けの話がありましたが、焼き物でも呼び継ぎをするとか、割れてしまったものに別の破片を継ぎ合わせて埋めるように、端布なんかをくっつけ合わせて再生する感じなんですね。

源兵衛__それで布が最後雑巾になって、もうどないにもならんようになったら、托鉢のお坊さんが来たらあげるとかね。

清水__なるほどね。

源兵衛__それもろうて、ツギハギだらけで着る。
僕は実は27歳ぐらいの時にここ(誉田屋源兵衛)の跡を継ごうと思ったんです。
その時に僕は憧れで大学の体育会に入っていたんです。ずっと「運動部や」という意識があって、ほんでその美術館とか博物館に行くいうのは、軟弱な気持ち悪いやつが行くところやと(笑)
僕はもともとものすごく虚弱児だったんです。
中学一年ぐらいまでまともに運動できなかったんですね。それが反動でそういうのに憧れたんです。ほんでどんどんどんどん、別に運動神経がええとかそんなのないのに、憧れの体育会系にいることが心地よかったんです。
その体育会系ではね。ちょっと本読んでるとか、文化的な話ができないんですよ、ああいう世界では。もう馬鹿にされます。「お前気持ち悪いやっちゃっなあ」みたいな(笑)。

清水__(笑)こんな環境で育ってきているのに。

源兵衛__そう。それでまあひた隠しに隠して、ラフでバンカラな人間やみたいに見せて、それが27の時に「跡を継ごう」って。
追い詰められたんですよ。
結局できることは何もあらへんし、勉強もしてへんし、もう何か仕事せんなら家の跡を継ぐのが一番楽やろうというような気持ちで継いだんですけど。
それが母親の逆鱗に触れたんやけどね。

清水__母親は他の道に進ませたかったんですか?

源兵衛__いや、「そんなものやない」と。「一生賭けても価値があるどころじゃない仕事だ」と。

清水__だいたい27ぐらいから日本のものがわかるようになってくる、そういうパターンって結構あると思う。昔の学者なんかでも、若い頃ヨーロッパのものに傾倒していて27ぐらいからこういうものもいいな、と。僕も西にしろうとかを読み出したのは27歳、小林こばやしひでを好きになったのも27歳なんです。そもそも小林秀雄が奈良に行くのも大体そのくらいだし、やなぎ宗悦むねよしが無名の陶工の作品に惹かれたのも27ぐらいですよね。
若い頃から日本のものに本格的にぐっとくるというのはあまりないのかもしれない。二十代後半くらいの時期に、ちょうど今だと留学することもあって、それでまた日本が遠くなるということもある感じですよね。

源兵衛__その時にたまたま正倉院展があったんですよね。それに友達が「行こう」ゆうて。嫌々ついて行ったんです。「まあ自分も跡継ぐんやったら、まあそういう文化的なことを多少は見ておかなあかんな」ということで、ついていったんです。
それが後々の僕にとって本当に重要なことになったんですけど、ふんぞうというね。

清水__糞掃衣って、禅宗のものですよね。禅僧の袈裟。

源兵衛__そうそう。糞掃衣しちじょう袈裟けさというのが正倉院にあるんです。
それを見てしもうたんですね。いまは国宝で、当時は皇室の宝やったんですね。
それをぱっと見た時に、そのもの以上に糞掃衣という名前、「糞を掃く衣」というのに参ったんです。「なんやろ」と。これは。

清水__バンカラから美の世界にいったんですね。

源兵衛__皇室の宝で「糞を掃く衣」て、こんな下品な名前を付けてね。
皇室がこんな「糞」っていう漢字を使うのかなというのもあったし、そのものはあんまりわかっていなかったんだけど、とにかくいろいろ調べたら道元ですよね。
僕は、なんにも知らんからとりあえず糞掃衣を見た時に直観したんは、ひとつは「織物というのは精神なんや」と思うた。それまで織物に何にも興味ないです。もうその時に直観的に織物をこれ精神なんやと思ったんやね。
もうひとつは、朽ちていく美しさ。
これはえらいことやなと思うた。この土に返る直前がひょっとしたら一番美しい可能性があると。このふたつを直観したんです。

二、原始布のある風景

清水__映画の最初に胞衣の話や色々な話が出てきて、「生まれる時と死ぬ時に一番大事なものを着る」と語られていたのが印象的だったですね。だいたい神話なんかでも一番そのあたりがタブーになっていて、古事記の神話で神武天皇が生まれる前までに登場する神々や人のエピソードはすべて「誕生や死を直視する」というタブーが破られた物語なんですよ。
子供を産むところをあえて見てしまったとか、イザナギのように死んだ人に会いに行って火で照らしてそれを見てしまったとか、そういうもの。そのあたりがベールに覆われている必要がある、衣もそこにある何かなんじゃないか。

源兵衛__ほんまにそういうことを……直観だけだったんです。
「跡を継ぐ」と言うたものの帯屋で扱うのはあのキンキラキンの何か浄土真宗の袈裟みたいなね、あんな帯ですやんか。

清水__すごい渋いところから入っていかれたんですね。

源兵衛__「あんなもん興味ないわ」と思った。
えらいこっちゃなあと。「跡継ぐ」言うたけど。

清水__華美だと。

源兵衛__もう「そういうもんではない」と。「精神や」と思ってしもうたから、これえらいこっちゃなあと。帯屋の跡継ぐどころじゃないわ、と。
ほんでもう逃げるように全国さまよったんです。
それで原始布なんですよね。縄文以来の。
縄文以来の樹皮布、木の繊維とか沖縄でいうたら芭蕉布とか、そういうもんへ逃げたんですね。逃げたいうか、西陣の大きいギラギラの帯、あんなもん興味ないわ、と。

清水__縄文以来のものがわかると。再現するとか。

源兵衛__いや、違うて。
その時は今から45年くらい前でしょう。そしたらまだやってたんですよ。ぎりぎり。沖縄で、まだほんとにやってたんです。まだ。
そやから今もやっているものもあるけど、もう今と違うて本当にまだ残ってたんです。実際に使っている人もいただろうし、もうぎりぎりそこが最後やった。僕は運がよかったんは、それを土産物として作っているとかいうのやなくて、まだ本当に昔ながらの織りが続いてたんですね。

清水__東北にも行かれたんですか?

源兵衛__そう。東北。あと丹後、それから掛川の葛布とか。それから四国の徳島の太布とかね。それが「まだこんなことしてるんや」という、もう最後ですよね。
それは本当に西陣よりよっぽどええな、と。そういうもんがね。

清水__美しいわけですね。

源兵衛__ 美しいし、何かもう全然違いました。
27歳から30歳ぐらいの間に全国を回りました。
あの時の生活と密着してるその感じはもう今ないですよ。

清水__柳宗悦が民藝を求めて全国を周っていた頃みたいな、そんな感じで生活に根付いていたんですか?

源兵衛__やっぱりね、なんていうかな。沖縄行って、この間亡くなった人間国宝の平良たいら敏子としこさんのところへ行ってね。
平良さんが「いや、あんた、京都からわざわざ」と。僕は20代ですよ。
「来てくれて気の毒やけど、もう全部売れている。もう注文付いているから、あんたに分けてあげるもんがない」平良さんが言うんです。
僕は偉そうに平良さんに「そんなもんいらん」言うた。
「何を言うとんや」と。
「ヤマトンチュ(日本人)の都合で、呉服屋の都合で作ったようなもの、俺いらん」って。ほんとに夕陽の砂浜を、その日食べる貝を拾って頭に乗せて膝ぐらいの丈の芭蕉布を着て。それが芭蕉布やと。その芭蕉布が俺は欲しいんやと言うたんや。そんな着物にして呉服屋で売るような芭蕉布はいらんと言うた。
ほしたら普通やったら怒るわね。
平良さんの今作っているの「いらん」て言うたんや。
嫁が鬼みたいな顔して睨んどった。それが平良さんは喜んで、「あんたはいいこと言ってくれる」と言わはんねん。えらいすごいなと思って、俺は。怒ると思った。ぼろかす言うてんやから。そしたらえらい喜んで「あんたほんならなにが欲しいんや」言うて。で、そういう話をした。
ほしたらふっと、「あんたが欲しがっているものあるわ」と言いだした。近所のおばあさんが自分の庭のバナナ。芭蕉ってバナナやから、それで織って、みな持ってきはるんやて。幅もむちゃくちゃ、長さもむちゃくちゃ、もう耳も波打ってるし、「どないもならんものを私は買うてあげなあかん」と。

清水__それをまた売るんですか? 平良さんは。

源兵衛__平良さん売れへんわけや、そんなもんは。もうむちゃくちゃやからね。幅も長さも。そのおばあさんやらは昔ながらに自分の孫、自分の娘、自分が着る、自分の旦那が着る芭蕉布を裁ってはったわけや。せやから規格サイズないわけです。それを織ってはる、それがあるって言わはった。それを私はもう買うたげなしゃあない、言うて。私とかは売れへんやと。それ溜まっている言わはった。
「俺欲しいのそれやないか」と言うたんや。
「それが欲しいんや。平良さん、それありがたい」って。

清水__それって不揃いでばらばらと言うけれども、そこにひとつひとつまた違った美しさがあると。

源兵衛__もう全部違います。分厚いのもあるし、バリバリのも、ちょっと薄めのもあるし、もうむちゃくちゃや。
それが僕は欲しい、それが芭蕉布やないか言うたら、平良さんわーっと喜んで。平良さんもそういう気持ちがあるわけや。そやけど芭蕉布を残すためにしょうがないんやと。こういうもの作らんと。「ヤマトンチュの着物を作ってあげへんかったら、私らは残れへん」と。「芭蕉布を残せへんから私はこういうことしたんや」と俺に一生懸命言うてはった。
で、俺はそんなんどうでもええと。とにかく欲しいのはそれやと。

清水__それを持って帰ってどうしたんですか?

源兵衛__ひどいのはもう使えへん。
ほんでましなやつを、平良さんに「混血児作ったるわ」言うたんや。
その時、僕は京都の技術偏重がまだそんな嫌味なもんだと思っていなかった。やはり都やから、天皇がいたから、ものすごい技術ですやんか。「それ(京都の技術)と混血児で作るわ」言うて。ほしたら平良さんものすごい喜んで。
ほんで「混血児作ったら写真を送る」て、平さんに言うたら、「あかん。写真あかん。ほんまの実物を送ってくれ。で、実物を見てまた送り返すわ」言うんや。邪魔くさいこと言うなと(笑)。

清水__京都も昔から市中の山居とか、混ぜるのが好きじゃないですか。雅なものと鄙びたような味を。それにしても大胆な試みだなあ。

源兵衛__けれどそんなもんは誰もしてへんかったから。京都やったら茶屋辻という藍染でやる文様とかあるんです。僕もその時には茶屋辻やったらええな、とかそんなこと思うとったんやけどね。で、それを作ったら平良さんに送っとったんや。

清水__沖縄の布は色はもっとまったく素朴なものなんですか?

源兵衛__沖縄のは、茶色い、飛ぶか飛ばんかわからんようなツバメみたいなのとか、あんな柄や。

清水__それに藍染のあの味が混じると。

源兵衛__藍染で京都の、京都というか江戸の着物や。それを「混血児を作ったる」言うて。

清水__それを言えるのがすごいですよね。古いものを残さなきゃと言ってるだけじゃなくて、わざわざ京都の要素を混ぜて混血にして生まれ変わらせようというのが。

源兵衛__それを言うたら平良さんもひっくり返って喜んで、「どんな混血児になるか私は興味あるから、もう絶対写真ではあかん」て。

松井__ 20代の終わりでした旅で、それぞれの地方の古くからの生活が強烈に残っていた。

源兵衛__それがもうおそらく最後やったと思う。
それを旅できたというね。ほんで木頭村という徳島に太布というのを織っとるんですね。その時は本気でやっとった。本気で太布を作ってた。ほんでそれから何年かして行ったら今度は「もうしゃあないさかい続けてまんねん」みたいな。それぐらい変わっとる。

松井__日本人の着るものが変わった。購入できるようになって、これまで生活着を作っていた習慣もなくなっていく。その境目を見たということですよね。

源兵衛__そう。いま僕は74でしょう。27歳やから50年近い前や。50年は経たへんけど、45年は経ってるわね。

清水__70年代の半ばぐらいかな。

源兵衛__そんなもんやろうね。それが不思議なぐらい。
戦前やったらまだね、大正とかやったやまだわかるけどね。戦後でっせ。その時にやってたんや。もう本気で。

清水__やっぱり作り手だから良さがわかったということがあるだろうし。何かいろいろな思潮があって、現代文明が見直されるというときには人類学が大きく動くんですよ。21世紀になっても、文化人類学は結構面白いことをやっていて刺激を受けてきたんですが、近代社会から隔絶された異文化に接する機会はさすがに減ってきているようです。僕は文化人類学者たちのようにリーフモンキーを狩ったりするようなフィールドワークをするわけにもいかないから、非西洋で自分が知っている世界に目を向けるようになっていきました。
それでだんだん仏教に回帰してきたというのもあるんだけど、源兵衛さんがしきりに旅をされていたというのも、時代もぎりぎりよかったんですね。

源兵衛__ぎりぎりよかった。
ほんとにあれが2年3年遅かったら、もう。ほんまの最後の時期だと思う。

三、衣に焼き付くもの

松井__『いのちの被膜』を作るきっかけを少し振り返りたいと思います。僕が最初に源兵衛さんにお会いしたのは、東京の着物の展示会場でした。アメリカが舞台の『私だけ聴こえる』という映画を7年越しで制作して公開を終えた頃で、日本を深く知りたいと考えていました。
ドキュメンタリー業界は中心となる市場がカナダ・アメリカだったりヨーロッパにあるので、僕もそうした映画祭のサーキットを走ることや、どこへ出しても通用する映画を作るための技術を磨いた時期があり、編集のためにカナダに3ヶ月暮らしていた経験から日本への見方が変わりました。
カナダで向こうの制作チームと映像を組み立てていく際に、いくら英語で話しても、自分で編集して見せても、なにか重要な質感が伝わらない。なぜだろう?と、ずっと考えていました。ひとつわかったのは英語というローコンテクストな言語はIがあってYOUがあってHEがあってSHEがあってという、その都度、主語をはっきりさせてしゃべる。それが映像の構成の中でもあるわけです。日本語だとあまり主語を使わずに互いにすっと場を認識している。それが主語をはっきりさせていくと映像の中から消えていくのを感じました。人と人の間に通う気配とか、人を含む場の空気が伝わらない。それをチームに説明しようがないことにジレンマがありました。
すれ違いを続けた結果思い至ったのは、日本語で生まれ育っている自分は日本のことをやらないとだめだな、ということでした。世界の映像の潮流から離れてもいいから日本語の思考から映像の文体を作り直すことをしたくて、あれこれ本を読んでたどり着いたのがいわけいさんの著書でした。今日的なアニミズムの在り方を書き残した文化人類学者ですけれども、フィールドワークをしながら感じたことを言語の時空に置き換える限界を見極めている。言語の分別以前に自然と人間との出会いの場があり、その不思議な場の中に自他が包まれる、自分を超えた魂のひろがりのなかに立ち入る、ということが書かれており、悩んでいた「気配の映像化」の糸口が掴めるのではないかと希望を抱きました。
岩田さんの本を携えて日本各地の職人を訪ねてドキュメンタリーを作りました。漆掻きだったり、和紙作りだったり、藍の蒅作りだったり、能の面打ちだったり、職人たちが自然の中に行って還ってくる。みな寡黙だけれども、何百何千年も続いてきただろう身体の動かし方やモノへの洞察、その身体を変形させながら蓄積した知恵のようなものがあり、惹かれました。こんなふうに世界を捉えることができるのかと驚くことが何度もあって。次第に地方にロケに行くことで生きる力をもらっていると感じるようになり、岩田さんのアニミズム論を制作に落とし込みながら、物作りの現場に潜るように過ごしていました。これまでに身につけた映像制作を一度解体して、画や音や声を向こう側からやってくるものとして出会い直すことで、映像を自然との間の通路のようなものにしたかったのだと思います。
その頃に知り合いが「源兵衛さんという方がいる」とつないでくれて。はじめてお会いした時、源兵衛さんが自作の帯を見ながら「現代の人は物(帯)を一方的に見ていると思い込んどるけど、以前まえは物から見られてたんや。物と目が合う。そういう感性が主流やった」とおっしゃったんですよね。
岩田さんが書いていたことと同じだと思いました。
「窓から自然が見えるというのじゃなくて、自然が窓から首を突っ込んできて顔を出す」とか、人が見る時に実は同時に自然の側からも見られているという。ああ、これは自然と地続きのものとしての衣を、源兵衛さんは直観的につかんでおられるなと思って。そこから制作がはじまりました。

清水__先程の映像でもやっぱりこの着物は母親が嫁入り道具で持ってきて、それを孫娘が、という話をされてましたよね。そういうのが全部感じられることがあるんでしょうか。

源兵衛__僕はあれけったいなこと言うてんけど、お母さんが死んで、おばあちゃんが孫のために娘の着物を子ども用にしたんや。

清水__ああそういうことなんですね。

源兵衛__あれは何でわかるかといったら、大人の着物なんです。

清水__なのに子どもサイズになっているわけですね。

源兵衛__子どもサイズに仕立て直しているんですよ。お母ちゃんはもはや死んでいるわけなんや。で、孫のおばあちゃんからしたら自分の娘死んだから、孫のために「あんたのお母さんの着物を着なさい」ということなんや。

清水__それはもう本当に克明にわかるんでしょうね。僕らでも長年研究していると、到底読めないようなレトリックもわかるようになったりするんですよ。専門的にやってると感触のようなものが掴めてくる。だから端布を見てもそういう風に分かるんでしょうね。

源兵衛__感じるね。

松井__旅をしていた時の芭蕉布の話もそうでしたけど、その日食べる分の貝を拾って頭に乗せて夕日の下を歩いて来る……そういう情景がまずあるっていうことですよね。その情景の中に衣がある。

源兵衛__僕にはそれが芭蕉布なんや。

松井__源兵衛さんにとって衣は、常に情景とともにあると感じます。
撮影時、子ども服を大広間に並べましたが、それぞれひとつひとつ、衣の向こう側にその時代のそこに生きた子どもたちの情景がセットで沸き上がってきているんですよね、きっと。

源兵衛__子どもにはそれぞれに物語があるわけです。それぞれに見たら何か浮かんでくる。何て言うかね、今の百貨店で既製品買うて、それには何もないよね。

清水__全部頭に焼き付いている光景なんでしょうね。親からすると。昔の人は今のようにやたらと写真で姿を映したりしないから、記憶を誘発する何かというのがすごく大事だった。先ほどアニミズムの話が出ましたが、この言葉を作ったタイラーによると古代人でも自分に魂があるということはリアルに感じているというんです。しかし自分がどのような姿で世に現れているのかは案外ぼんやりしている。そして夢などに人が姿を現すということが不思議でしょうがないらしい。
そういう感覚なので、動物にも魂があるということはリアルなんだけど、それほど動物が自分を動物と自覚しているのかというと怪しい、そのくらいに感じているみたいです。昔の人は、光のことも「影」といった。「現れ」としての外貌、面影ですよね。衣もまたそういうものなんでしょう。ギリシャ人も美しい姿を持っているかということに関心が高いけれど、「節制とはなにか?」というような議論をしても大概うまく決着がつかないのに、「節制したからこういう肉体なのだ」というのは一目で分かる。

松井__「一人一着」「衣は精神そのもの」と源兵衛さんはおっしゃったんですけど、先程話に出た絽の着物を撮影していて、その分身のようなものとしての衣を感じました。あの着物を源兵衛さん越しに撮った時に、「あ、死体が横たわっている」と感じました。あのカットは一番手応えがあって。源兵衛さんの後頭部の向こうに、あれは何ですかね、魂が他界から来てこの世である一時を過ごして去っていった抜け殻のようなものがある。死と生が何か入り乱れた感じがまだそこに仄かに残っているんですよね。ものすごい鮮やかじゃないですか。たぶんもう100年くらい経っているものなのに、何でこんなに綺麗なんだろう。聖性を帯びているというか。

清水__体温みたいなものが残っている。

松井__そうなんです。こんなに綺麗なのはおかしくないか、と思いながら、光に透かして見ると、ああ、これは何らかの未練があってこの世にまだこの形であるんだというふうに見えてくる。納得させられたというか、目で見て納得したところでした。

清水__自分の姿がよくわからないという話をしたけれど、自分に似たものが現れるとか、鏡に映った自分を見ることで、例えば赤ん坊でも「自分はこういう姿なんだ」と、はじめて統一的なイメージを自覚するとか、動物なんかも例えばその動物に似た格好をして狩人が現れると、それに惹かれて出てきて狩られてしまうとか、そういう話はよくあるんだよね。
だから能の『井筒いづつ』でも、井筒の女の霊が業平なりひらかんむり直衣のうしを着て舞い、井戸に自分の姿を映してそこに業平の面影を見るとか、一貫してそういう趣向だよね。そういうのって深いなと思う。ギリシャでもどこでも、被膜や形として現われたものの方が説得力がある、そして魂はその被膜のうちにあって、それ自体は普遍的である、という考え方があるんじゃないかな。

源兵衛__せやから室町時代に、あれ『雨月物語』(監督:溝口健二)かな。あの映画でも古着屋がいっぱいあるでしょう。結局、位の上の人しか衣を作れへんわけです。

清水__新しいものを。

源兵衛__うん。それが全部下に降りてくるわけで。下ろす時に縁切りの行事をせんならん。古着屋が集めてきたもんを神社で縁切りして、それから市場に出すんです。
ということはもう、その人そのものなんですよ。
せやから、帯は娘やら孫に形見分けするけど着物はしないですよね。
法事の時に着物は打敷にして、その人がいつも着てた、その人そのものみたいな着物をこう打敷にして、敷いたり飾ったりしてその人を偲びませんか。その人を偲ぶ。着てるもんで偲ぶわけです。ほやからやっぱりもう、ものすごいその人が現れる。
言うたら綿ができて、やなぎくにじゃないけど。一人につき二枚三枚は持てるようになったと。江戸初期もそうなんや。それはその人らにとってはありがたいか知らんけど。
一枚をね、それこそ年中一枚やからね、これはもうすごいことやんか。

松井__着物一枚あれば、みんながその人の佇まいとか動きとか歩き方を思い出せるくらい脳裏に焼きついているわけですね。

源兵衛__焼きついているわけや。
ほんでもう男女が情交わしたら交換するわけや。いつも私を着てくださいと。あなたもこうね、お互いに。それぐらい衣と人というのは一体やんか。
大正か昭和初期かわからんけど、まあ大正明治、それが僕は子ども服の最後やなあと思う。そういうことを感じさせてくれる名残があるわね、まだ。

清水__ちょっと古いものからわりと昭和のものまである。

源兵衛__あります。

〈第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|中編につづく〉
 
 
 
 
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編中編後編
|第8話|田んぼに還る|西会津|

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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