草日誌

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2023年5月27日

人に潜る 第4話
ゆびわのはなし|奈良 ①


 
 
 

神戸元町商店街の喫茶店の丸テーブルの上にくちいろのビロードの指輪箱が置かれて、その蓋の裏張の布に刷られた字を読むと、時間を遡るようだった。

ド ン モ ヤ イ ダ

左から右へ。それから、右から左へと文字をたどるうちに見たことのないはずの大正の頃の宝石商の姿が、白黒のフィルムの中の賑やかな元町商店街の画と共に浮かんできた。

母が大切にしていた……ルビーの指輪……。
本物ではないそうなんですけど……
それでも高価なものだったそうです。

ちいさな透きとおる赤いルビーとちいさなよくとおる澄んだ声。
萩下美知代さんの、その70余年の生涯を貫いた指輪の話を聞きはじめると、歌うような声の抑揚に引きこまれて辺りの喧騒を離れた。

母の簞笥の中にありまして。
簞笥のね、一番上のシューっと開ける……
小さい引き出しがあるんですよ、また。中に。
簞笥の中の戸棚開けて、中にまた引き出しが……そこに……上の段にありましたね。
それを見て、それがコレなんですけども。
子供ながらに中をパッと開いてみると、「わあ、綺麗」って。

2回くらい母に「素敵な指輪があるんだけど、あれルビーでしょ?」って言いまして。「ああ」って母はとぼけたような感じだったですけれど。「あれ、ちょうだいね」って言っても「あげるよ」とは言わなかったような気がするんですよ。だから母も大切にしていたのかなと思うんですけれど。

一度も、でも、(指輪を)しているところは見たことないですね。どうしてなんでしょうね、気恥ずかしいのかな。きっと母は。母はけっこう地味な方だったんで。で、田舎だったんで。で、けっこう仕事を一生懸命がんばってやってたので。目立つっていうのが、人よりも華やかにっていうのは……あまり。ちょっと……どうでしょうね。ちょっと気恥ずかしく思ったのかもわからないですね。

「いただいた」って言ってましたね。
「いただいたものだ」って言っていたような気がします。
大切に簞笥の中に仕舞ってるっていう感じがしまして。けっこうその引き出しには大切なものを入れていた気がします。鍵とか。そういうものが入っていた気がするんです。

ずっとそれが印象に残って、私の脳裏にいつもありましたね。
やっぱり母が普段付けないものっていうのはとっても貴重なものだろうなっていう気持ちはありましたし、こう、ピンク色に、赤っぽく輝いてるっていうのはとても魅力的でした。

思いがけず目にした光景が種子となって心の底に埋め込まれ、のちの人生が決まってしまうことがある。
薄暗い畳部屋の黒い簞笥の上の段を覗き込む母の背中。
それをじっと見つめる子どもの眼。
数秒だが永遠のような沈黙。

萩下さんは木の指輪を作る作家になった。

なにか残しておきたいなあって。娘や孫がいつか「ああ、おばあちゃんはこんなふうに生きたんだあ」って思う日が来るかもしれない。そのときになにかのヒントになるかもしれないと思いまして。私には先祖の生き方を知るのは大切だったものですから。

はっきりとおっしゃらなかったが、これまで萩下さんがどんな理由で、どんなふうに指輪を作ってきたかを映像にすることが、ぼくへの依頼だった(のだと思う)。
帰り道、ぼくの脳裏にも黄朽葉色のビロードの指輪箱があるのを感じた。

 
 
 
人に潜る|ゆびわのはなし|奈良 (6月10日更新)につづく

|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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