記事一覧
そのままお宅に泊めていただき、吉野口の空気に馴染んでいった。それからぼくは「外で撮影をしましょう」と提案しておきながら目的地まで来てマイクを忘れたことに気付いたり、なんでもない道路を歩いていてなぜか遠くの車に…
3ヶ月後。奈良の吉野口を訪れると、萩下さんと旦那さんがおふたりで迎えてくださった。なだらかな山の裾に建つ小さな古民家に案内されて、その薄暗い土間から中に入ると床ではなく砂利石が敷いてあり、いくつかの作業机には…
神戸元町商店街の喫茶店の丸テーブルの上に黄き朽くち葉ば色いろのビロードの指輪箱が置かれて、その蓋の裏張の布に刷られた字を読むと、時間を遡るようだった。 ド ン モ ヤ イ ダ 左から右へ。それから、右から左へ…
【 うつる人 】 覚悟ができました。 男がこちらも見ずに言った。 映像を公にする覚悟のことだ。 完成からもう3年半が過ぎていたので、ぼくは自分がこの言葉を待ち望んでいたのかどうかすら忘れていた。 ドキュメンタリーを公にす…
眠る前、ある声を思い出した。 2014年の番組の撮影を終えた日に自分の奥深くに刻まれたその声の意味を、この夜ほど理解できたことはなかった。 あの日、僕はいわきのホテルで極度の疲労と達成感に満たされながら、取材…
青空の広がる沿岸部を車で走り抜ける。 道は広く真新しい。以前は工事中でところどころアスファルトが割れていた河口の橋の上を通り、底上げされた道の上に車を止める。津波で川が氾濫した痕跡は、水面から5、6メートル垂…
もうどんな映像も見たくない。 真っ昼間から寝室に横たわって天井を見上げる。 いつもならなにかしら惹きつけられる人やテーマが浮かんで間断なく制作がはじまるのだが、ずっとなにも見当たらない。心の中を空き地にし…
4日目。ちばさんから家の鍵を受け取って、午前中から撮影をはじめた。ようやく家と二人きりだ。二人きりという言葉は物や場所に対して使わないのかもしれないが、これまでこの「怪我人」である家にカメラを向けていいの…
2日目。できる限り何にも触れずに物を動かさないよう注意しながら、津波で亡くなったちばさんのおばあちゃんの部屋に入った。両開きの戸が開いたままのクローゼットにかけてあるジャケットの青が鮮やかで、まるで昨日掛…