草日誌

草日誌

2023年2月18日

人に潜る 第1話
家は生きていく|石巻 ②

 
 
 
 

2日目。できる限り何にも触れずに物を動かさないよう注意しながら、津波で亡くなったちばさんのおばあちゃんの部屋に入った。両開きの戸が開いたままのクローゼットにかけてあるジャケットの青が鮮やかで、まるで昨日掛けたように生気を帯びている。しゃがみ込んでたくさんの上着を下から見上げ、袖口にピントを合わせた時、この衣服には持ち主がいて明日にでもこの袖に腕を通すのではないかと感じた。震災後、家の片付けにきたちばさんは、一度塩水に浸かったおばあちゃんの衣服を部屋いっぱいに干した後、「なんか仕舞っちゃったんですよね……仕舞っちゃった(笑)」という。なぜその時に捨てなかったのかもわからないし、仕舞った時の記憶が彼女には無い。

中に人が居ないと思っているのか、カラスが屋根の上を堂々と跳ねる音がする。以前はよく庭先にカモシカが来ていたらしい。人気のない家は生き物を引き寄せるのかもしれない。以前、限界集落を撮影した時、家主が亡くなって朽ち果てた家を何軒か見たことがあり、家は人がいなくなるとあっというまにボロボロになることを知っていたが、この家は彼女が通って手入れをしているからか芯のところに生気が張っている。

夕方にちばさんは、おばあちゃんが録音したカセットテープとレコーダーを持ってきてくれた。黒いプラスチックの押しボタンの音や懐かしいテープノイズ、幼いちばさんの三語文に応じて会話するおばあちゃんの声。それを聞くちばさんの顔がほころんで子どもに戻っていく。撮影という馴染みのない状況に緊張していた面持ちが、カメラの前で解けてきていた。
「話したくなければ話さないでください」と伝えた上で、一度きりにしようと決めて、おばあちゃんが亡くなった時の話を聞いた。必要に応じて人は、自分に起きたことを自分にもわからないように封をすることがある。「忘れる」という心のはたらきによって、日常の営みを続けるには重すぎる事象に意識を奪われないようにする。だからその封を開けてしまわないように立ち止まって確認する。話を聞いて、おばあちゃんの写真は見ないようにしようと思った。カセットに残った声と衣服からおばあちゃんの存在を(不在を)感じようと決めた。写真は彼女を故人にしてしまうだろうから。

3日目は夜に座談会があったので、泊まっていたゲストハウスの部屋に籠って、朝から編集を始め、短い予告編を作って街に向かった。来てくださった5人の方々を前に上映したあと、ちばさんが家について話した。
せっかく人数が少ないので、とそれぞれに自己紹介をお願いすると「いま、突然思い出したんですけど……」という前置きから震災の日のことを語りはじめた方がいた。

うちには子供が4人いるんですけど、男の子だからみんな外で傘を振り回して折って帰ってくるんですね。だから玄関に折れた傘を束にして置いておいたんです。でもゴミの日に出すの忘れてしまっていて。津波から避難しているときに走りながら急にそのことを思い出して、『あっ、あの傘、もうゴミの日に捨てなくていいんだ』って思って。とんでもないことが起きてて、もっと考えなきゃいけないことがたくさんあるのに、なんでかわからないんですけど、そんなどうでもいいこと考えてたなあ……ということを初めて思い出しました。すみません、なんか喋りすぎちゃって。

これを皮切りに一気に震災の日の話が出てきた。
夜に遠くの空が火災で真っ赤に染まっているのをみて「空襲ってこんな感じだったんだろうな」と思った話。病院で働いていたので震災から2週間ずっと担ぎ込まれてくる人に対応して、ようやく一日休日をもらって家に帰るまでの道を写真で撮りまくったら急に「被災したんだ」という事実が現実味を帯びたという話。ちばさんと家のことを知って「私は家が全部流されたんですけど、よく夫と『綺麗さっぱり流されて私たちはよかったね』って話してるんです。いつも思ってたけど遺品を整理するなんて本当に大変!だから今日話を聞いてやっぱり『よかったな』って思いました。」という方もいた。

ちばさんと家との関係が映像を通して外在化されたことで、別の誰かの11年と半年分の語りを触発し、記憶が溢れ出てくる。皆、映像をただ見るだけではなく、映像に自己を重ねて思い出している。スクリーン上の他者の人生を追いながら観客の内面ではそれを自分ごとにするはたらきがめまぐるしく起こる。いつからか僕は映像自体の完成度に興味がなくなって、映像は観る人の心が完成させればいいと思うようになり、本人すら意識してこなかった語りが呼び起こされ、現われてくるのを待つようになった。

僕からは制作の基本姿勢について述べた。
ドキュメンタリー制作の多くが出演者と向かい合い、第三者や公に見せることを想定して作られるのに対して、自分は出演者と同じ方を向いて「共視」する姿勢をとる。不特定大多数に説明することを考えず、出演者のまなざしの先を並び見る“ジョイントアテンション”によって、固有の世界観や時間軸が深さを持って映像の中に立ち上がってくるという方法をとる。

まず撮る人と出る人、ふたつの個の領域が近づくと重なったところに、自分なのか相手なのかわからない自他の領域が発生する。たとえば親しい人との日常において、相手の好きな食べ物をいつのまにか自分も好きになっていたり、相手がいつも聞いていた曲をいつのまにか口ずさんでいたりする。話さなくても相手が考えていることが反射的に伝わってきたり、あるいは自分に湧いてきた感情を相手が同時に把握していたりする。そうした非言語的な同化が深まっていくことで互いに変化し合い、重なりと違いがよりよく見えてくる。人と人のあわいに、私はあなたであり、あなたは私であり、私でもあなたでもないという不思議な場がある。人間同士に限らず、植物や動物、死者や物、土地との関係においてもその場は発生する。映像もそこから生じる。

制作時は、この自他の領域の解像度を上げて、相手をとりまく世界との固有の関係を見にいく。ちばさんの場合だと、彼女と家との関係に僕自身が溶け出すことで何をどう撮るかが決まってくる。ちばさんが家に対して「家族の一人」だと思っていること、その家が被災して「怪我をした」状態であっても、それは「家の経験」の一部だと認識していること。こうしたちばさんの家へのまなざしを一度体に入れると、家を前にした時の感受性が大きく変化する。自分なりにちばさんと共視できる位置にいくことで、画や音を通して今度は家から現れる世界観に触れながら撮影していく。ちばさんという人物像そのものをポートレートのように撮るよりも、彼女と共視した状態で家を撮る方が、ちばさんという人のことをより感じられるという物質的には矛盾したことが起こる。たとえて言えば、洗面所で鏡にうつるのは正面を向いた自分の肉体の表面(=物質)だが、自分をとりまくものとの無数の関係(=現象)には、その人の自己像が多元的にうつりこんでいて、しかも絶えず変化している。家族といるか友人といるか、あるいは犬や猫といるか、職場にいるか一人でいるかによって、自ずと現れる顔が変わってくる。おばあちゃんとちばさんの関係においても、死者がいかに生者を支えているかについて、その衣服が、衣服に触るちばさんの動作が、満ち足りた関係を語りかけてくる。映像には物質しかうつらない。だが、個と世界との関係が、その時その人にしか生じなかった絶対的に固有のものであることで、ドキュメンタリーは逆説的に人間という現象を浮かび上がらせる。
個の領域とは心身が溶け出した世界であり、それを察知する神経であり、ひとりひとりが異なる姿で存在しているありのままの生態だ。僕たちは隣り合いながらも異世界に生きていて、そこに潜るドキュメンタリー制作は個々の生態をうつしだす神経多様性(ニューロ・ダイバーシティー)の旅なのかもしれない。
そんな話をした。

座談会の参加者は予定の時間を大幅に過ぎてもまだまだ話し足らない熱を帯びたまま解散し、打ち上げでチームの志村さんが「24時間くらい話せそうでしたね。そういうイベントやろうかな」と嬉しそうに言った。一人でモニターを観ることが現代の一般的な試聴だろうけど、出る人も観る人も作る人も同じ場で観ることで、映像は語りを喚起し、共振を生む。太古から人が焚き火を囲んで代わる代わる民話を紡いだのと同じ力が映像に引き継がれているのを感じる。大きなメディアだけが物語を発信できるという錯覚が、ひとりひとりの内に固有の物語があることを忘れさせているけれど、人はもっと自分の、自分たちの身体を充分に駆使して見聞ききし、満たされ、語りたいのではないかと思う。何万年も続けてきたことの現れ方が変わっただけで、語り自体がなくなるとは思えない。テレビや映画という仕組み以前に立ち返って、語りが自ずと溢れ出す場が求められるだろう。もしそうであれば、これからはじまる小さな焚き火の光となる映像を作りたい。
 
 
 

人に潜る|家は生きていく③につづく

|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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