草日誌

草日誌

2023年5月13日

人に潜る 第3話
人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像

【 うつる人 】

覚悟ができました。

男がこちらも見ずに言った。
映像を公にする覚悟のことだ。
完成からもう3年半が過ぎていたので、ぼくは自分がこの言葉を待ち望んでいたのかどうかすら忘れていた。

ドキュメンタリーを公にするのは難しい。
うつす人よりもうつる人にとって。
これまでに、2年半の撮影を終えて立ち消えになった映画もあり、一度公開してから削除した作品もあった。
劇映画なら架空の人物を演じることに終わりがくるけれど、ドキュメンタリーはうつる人の人生が実際にあり、制作が終わっても続く。質の良し悪しとは別に、映像はその後の人生を変える。偏見も悪意もあるこの社会に自分の人生の一時期がうつった映像をなぜ出すのかを考えるとき、うつる人には意志とはまた違った次元の覚悟がいる。

これを公開しないと、前に進めないんで……

居酒屋の狭いカウンターで小さなビールグラスを両手で握りしめながらO B A(37)は、ぼくではなく自分に語りかけていた。

初めて彼に会ったのは広々とした渋谷のカフェで、コーヒーを飲む人々の手元や肩に陽の差す朝のことだった。店の誰ひとりとして気付いていなかったが、履いていた一本歯の高下駄を脱ぐと、O B Aは突然踊りはじめた。
パラパラという極小の音を立てて腰まである黒髪が床に落ちる。座り込むと同時に黒ずんだ踝が顔の位置まで上がってきて、着物がはだけ、丸い大きな膝の皿と細い腿があらわになり、指と口が食べ物に貪りつくように素早く動いた。神経に痛みが走る時の苦痛に顔が歪んだかと思うと、目を見開いたまま夢を見る女性の顔になってこちらを向く。
その振りは、舞踏の創始者・土方巽の演目「少女」だった。
まるでピアノを演奏するようにO B Aは〈土方巽〉を演奏した。徹底的に身体を解体したダンサーによる完成されたコピー。その太い骨格と最小限の筋肉で出来たからだは、そこに在るだけで人間もまた獣だという秘密を明かしているかのようだった。

それから異色の経歴を聞いた。
10代でストリートダンスに目覚め、ニューヨークに渡り、1日12時間練習。差別を受けながらも黒人たちが競い合う本場のダンスバトルで優勝。マイケルジャクソンの「キャプテンEO」などに出演していたダンサー・Jazzy Jに弟子入りした。帰国してからは舞踏を入り口に神社仏閣の奉納演舞もおこない、日本独自の身体を探求。一本歯の高下駄を履いて歩くことをそのまま稽古とし、日々、舞踏を生活に落とし込んでいる。

会って1時間もしないうちに互いのなにかが噛み合った。
ぼくが「撮影のときは眼と耳だけになりたい。他は消えて無くなってかまわない。」と話すと、O B Aは「踊るとき眼と耳が邪魔で仕方ない。人に見られているとか、外に注意を奪われたくないんですよ。消えて無くなって欲しい。頭部の無い、からだだけになりたい。」と応じた。

【 うつす人 】

渋谷の小さなクラブでO B Aが踊っている。
重力を迎えるように天井を一心に見上げて、大股開きで震えながら大量の汗をかいていた。30分かけて、ただ舞台奥から手前までの3メートルを歩く踊りだった。十数人の観客の視線が注がれているにも関わらず、O B Aは誰もいないところでたった一人で踊っているように見えた。彼が全身で舞踏の空間を立ち上げようとしている姿に、観客は立ちすくみ、目を泳がせていた。O B Aと観客は、同じ種とは思えないほど乖離していた。なぜかはよくわからないが、多くの人は舞踏を直視できなくなっているのかもしれなかった。都市に暮らす観客のからだと舞踏のからだとの間には、両者が出会いなおすための通路を設計する必要がある。
舞踏が終わるとO B Aはすぐさまマイクを持って「あの……震えまくってすみませんでした!」と謝って爆笑をさらった。「真摯にやっている舞踏を誰かにわかって欲しい」というような願望を満たすためではなく、踊らずにはいられない状態を抱えてしまうから彼は踊っているのだと思った。そういう人はどんな舞台に立っても、たった一人で踊っているからすぐにわかる。

カメラを構えてみたが、踊りはうつらなかった。
録画された肉体は、もうすでに何かが通り過ぎた後の抜け殻だった。いくら素早く動いてもその何かをつかまえられそうになかった。カメラが1秒の間に数十コマの静止画を撮影し、それらがめくれていく残像効果で、眼の中に〈映像〉が成立する。だが、そうやって像が現れるのを待っていては遅すぎる。踊りは肉体が動く前の情動の兆しの領域で生じている。それは気配のようなもので眼には見えない。だから、眼の働きだけで対象をつかまえようとしたらどうしてもほんの少し出遅れる。ほんの少しの差で永遠に踊りから置き去られる。

ふたりで街を歩いて帰った。
「踊りは映像にはうつらないので、撮影を諦めました」と伝えると、O B Aは夜空に声を響かせて笑った。
「俺もずっと踊りはうつらないと思ってたんですけど、映像作家が自分でそれを言うってヤバイっすね!」
そんなふうに制作がはじまった。

時折会って対話を重ねた。
いろんなことを話した気がするが、どこから話しをはじめても行き着く先はいつも同じだった。
川崎市登戸通り魔事件。O B Aは犯人と同じ町に住んでいた。いつもどおりの朝、よく知った道で事件が起きたこと。事件の後、心から踊ることができなくなったのを知った。

どんな些細な踊りでも、踊ろうとする瞬間には生きることへの肯定が働いているけれど、あの事件はそれを否定した。

そう口にするO B Aの顔が屈辱に歪んでいく。



川崎市登戸通り魔事件

2019年5月28日7時45分頃、川崎市の登戸駅付近の路上で、小学生の児童や保護者らが近づいてきた男性に相次いで刺された。
被害者のうち2人が死亡し、18人が負傷。
犯行の直後、容疑者は自らの首を刺し、死亡した。
動機は不明。

事件から2ヶ月が過ぎていた。
数人のコメンテーターが犯人に対して「(死にたいなら)一人で死ね」と発言したことがS N Sで炎上し、それに同調する空気があった。反論も出たが、原因を突き詰める調査報道はなく、事件自体がすでに忘れられたかのようだった。耳を塞ぎたくなる出来事だったにせよ、この社会の世論は、自ら生み出した狂気や死を早急に言語で排除することを望んでいるように思えた。

ぼくの傍らでは踊れなくなったO B Aがうつむいて立ち止まっていた。この反応は、踊る人の在り方を端的に表しているように思えた。言語によって事象を分別するより先に、身体の内に他者を抱え込んでしまう。情報として処理できない血肉を持った個が入ってきてしまうのではないか。想像を絶する暴威や、死者さえも、時に本人の意思とは無関係に。
O B Aの身体に起きていることをひとつひとつめくって、事件に否定された「生きることへの肯定の働き」にまで遡ることができれば、そのプロセスが映像になると思えた。

【 断片的な制作記 】

2019年8月
構成メモ。
映像(事件現場・インタビュー)+舞踏の3つの場面を作る。
映像上映+舞踏のセットで一つの作品とする。
踊りはうつらないのでO B Aに舞ってもらう。
映像が全てを担う必要はない。
映像はこれからはじまる舞踏への通路となる。

9月3日
O B Aと電話。上映後の舞踏について話す。
「やっぱり遺族のことを考えると踊れない……。俺なんかが誰かの感情を代弁したり、自分の感情云々を踊るのは、人として違う気がする……。」と言われて会話が止まった。ふと能の舞台には霊的存在がよく登場することが思い浮かんで、なにも人間を踊らなくてもいいのではないかと思い、「人から一旦離れて、鬼とか幽霊とか、人間の内の暴威みたいな存在だったらどうですか?」と尋ねると「あっ鬼舞か。それならやれます」と声の調子が一転して気力に満ちた返事がきた。

語源を調べると、〜「おに」の語は「おぬ◎◎(隠)」が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味する、との説が古くからある〜とあり、実体があるかないかわからない鬼の存在を通して、この映像は死の領域を含む表現になると確認した。



9月23日
インタビュー(南行徳、川崎、渋谷)を終える。
友人たちと狂気や死に関する話をする。
画は背中だけでよかった。普段、駅や道路で見知らぬ誰かを見ているように。それ以上関われないように。
インタビューは対話に没入できる電話で行った。
映像という舞台に、背中は〈無関心〉を、電話は〈親密さ〉をもたらす。だから、観ていると、なぜ、誰に、どう繋がっているのか、たまにわからなくなる。これらの演出によってSNSのタイムラインを映像化する(テキストだけで語られる言説を、生身の声に戻してみる)という意図があったが、実際に4人の声と間とをつないでいくと、日常によく似ているが少しズレた次元にある〈日常のようなもの〉が映像上に現れた。
ひとりひとりの話者が別々の私的な事情を思い起こして話しているにも関わらず、ひとつの語りの場で共に話しているようにも思えた。
この映像は、観る人の内に何を想起させるのか?
自分たちが「他者を想像すること」をやめているわけではないということ。
見えないが他者の身体は地続きに在るということ。

10月1日
撮影準備。
「ああしようこうしようなんてもってのほかだ」という土方巽の言葉を思い出す。アイデアを付け加えるなどという想念は、現場に行く前に全部燃やしてから行く。躊躇わないようにレンズを一本に絞る。75ミリのマクロ。至近距離で物撮りをするためのレンズを風景に向けてみる。これだけで撮る。ズームがないので自分が動くほかなくなり、歩き方から制限される。思い通りにならない方が周囲をより鮮明に感じられる。

10月2日
登戸事件の風景を撮影しにいき、読売ランド前駅に帰ってきてO B Aを待つ。
現場を撮影後、誤魔化すようにラーメンを食って河原に行って座り、駅前のドトールに座り、また喫茶店に入る。
疲れ切った。
現場で撮れたのはたった一枚だった。
それ以上撮れなかった。
平凡な、なんのイリュージョンも起こさない、どこにでもある道路の画。
もう一度戻って撮ろうかと引き返したがやめた。
一枚撮った後に思ったことは「撮りすぎてはいけない」。
そして血を喚起させるために地面を撮らないことだった。
献花はなかった。
片付けられたのか、それとも4ヶ月で忘れ去られたのか。
単なるアスファルトの道があって、近所の人が歩いていた。
どんなに殺そうと思っても、あの風景の中で殺せるとは思えない。日常の風景の分厚い壁を飛び越える何かが自分の中には見当たらない。

10月20日
品川宿で開催しているドキュメンタリー映像祭ドキュ・メメントにて一度きりの舞台。O B Aは朝方に登戸の事件現場で献花して、そこから一本歯で品川まで歩いて会場入り。
20時過ぎ、100人ほどの観客の前で上映と舞踏を行った。

【 再会 】

2023年5月9日 

読売ランド前の喫茶店がどこも閉まっていたので、O B Aの好きな神社のベンチに腰掛け、話しをはじめた。

子供生まれてすぐだったし、背筋が凍る思いだった。

登戸にスタジオを借りて、生徒たちも集めて、練習会をやっていた。事件の翌日にもあったんですよ。事件現場から数百メートルのダンススタジオで、めっちゃ明るいファンクの音で。ズッツカッツ、ズッツカッ、ってヒットの練習やってるうちに。なんか左側からすごい視線を感じるというか。はっきりした女の子の視線を感じる……妄想かもしれない……けど。
やるからには本気でやるっていうことでどんどん集中力が高まっていく中で、正味なところ……もう芸術の力って……もし自分が事件現場に遭遇したとするなら、俺なにができるんだろうって。ヒットって「自分はここにいる」っていう主張だと思うんですけど。なんにも共通性がないというか。

映像をひさびさに観て。あの時に自分が言った「怒り狂ってんだよね 基本的にずっと」というのがどのような感覚なのかっていうのは残しておきたいと思って。「怒り」からはじまったダンサーが、今は祈りに繋がっているということは共有したいと思った。

「怒り」という、いわゆる暴力性について、ぼくの場合を赤裸々に話すと、児童障害者施設からそれが溜まってきている。
その施設に行くと、不合理の世界。
なぜか黒い箱に頭を突っ込まされて、うさぎの人形にライトを当てて「これなんですか?」「これなんですか?」ってずっと言われる。答えられないし。「うさぎ」って言えないんですよね。「うなぎ」とか言っちゃたりして。
3、4、5歳くらい。保育園に通っていた時に喋らないから母ちゃんが心配して。病院に連れて行ったら言語障害だってことで。親が泣いたりとか。施設の先生に親が責められたりだとか。あんたのせいだって。ぶっちゃけた話、家で幸せ過ぎて言葉を喋らなくてすんだ男だっただけなのにね。
そういうところで培われた(怒りの)感覚っていうか。
小一とかで、鬼があらわれてクラスの子を1人づつ食べる空想をずっと絵に描いてたりとかして。子どもなりの訴えだったのかわからないですけど。自分に角が生えて、自分が人を食べるイメージで涎垂らしちゃうような小学生だった。
自分の言葉が笑われるから、言葉を全然信じてなかった。
そっからたまたま友達ができて、ダンスというものに出会って。ロボットダンスを見よう見まねでやってみたら、「すげえな」ってウケて。それがきっかけで、自分の言葉はこれ(踊り)なんだって気付けたから、今こうやって生きていけるし。だから暴力性を持った人たちはたくさんいると思うし。それを自分なりの、絵でもいいし、踊りでもいいし、料理でもいいし、そういうようなところに、自分なりに集約した結果でうまくいくっていうのはあるから。

踊りは祈りであるっていうあたりまえの事実を認識できるようになるまで、すごく時間がかかった。
ストリートダンスでカッコよく踊るとかそういう世界観からはじめて、自身のアイデンティティーとか、日本人の身体性っていうところでたまたま舞踏とぶつかって。20歳の時に。
ようやくここ数年で、「踊りは祈りだった」というところを深く認識できるようになってきたかなと思ってた。
その祈りを生活にまで落とし込もうとしてた。
毎朝、祝詞あげて。
でも、それが(事件が)近所で起きた。
……ということは、それに気付かずに今まで呑気に「祈り」だとか思ってた。
……虚しいまではいかないけど。
こういうことが実際に起きて……。
勘違い? 自分のバイブスが空間全体に影響を与えているということ自体が勘違いだと思った。
そんときに心から踊れなくなった。

人のため世のためとか言ったり、表現するとか言ってちょっと社会のためになってると思ってたけど……。
ああ、なんか全然、見当違いというか。

すごい綺麗な夕陽の時に、それまで事件のあった周辺に住む者として「いや、(踊るのは)ありえないでしょ」と思っていたのが、電話で(松井と)話していて「あ、それだったら鬼舞でいけるかもしれない」みたいに、表現の世界に切り替わった瞬間があったんですよ。
表現者として、それなら見えると言うか。
できるって思った。

シュタイナーの神智学ですごく面白い分析があって。
「生活は基本、受動的である」と。それに対して「能動的になった瞬間に、死が近づいてくる」という言葉がある。
常に受動的であれば、それはコンフォートゾーン(快適な空間)なんですね。なんだけど、能動的になった瞬間、コンフォートゾーンから外れることになる。コンフォートゾーンを外れることが踊りであり、それを完全に外れたのがBUTOH=舞踏だと思う。そうなった時に緊張感や、痛みや、苦しみも当然踊りに含まれますよっていう。踊りにおいても疲労だったり、痛みだったりあるんですよ。歩いてたら足痛くなるし、腰砕けそうになる時だってあるし。
そういう身体の歩みを通してでしか繋がらない点と点は、確かに存在する。
踊る行為そのものがコンフォートゾーンから外れないと積み重ねにならない。そういうところも全部含めて、踊ることは生きる上での能動的な表現そのものであると思う……。
ということは「踊りは死に近づくことである」っていう……。
ただその結果、そのこと(舞踏をしたこと)によって、その自分を肯定するかというと話は全く別で。
できないと思う。これからも。

犯人の声さえ残っていない事件なんですよ……今回。
だから映像にしかできない能動性と、舞踏にしかできない能動性のふたつでもって、死をうつした。
死の領域を含もうとした。そう。
「一人で死ね」というフレーズへの表現者なりの答え。
そこにおいては公開することで責任をとりたいと思ってます。
だから「芸術は無力だと悟った」けど、そこから何周も回って考えたら、自分のやる役目は、それでもなお芸術は存在するということを表現し、発信することで、もうつなげていくしかねえや。

神社を後にして駅前で別れ、電車に乗ったところで、ぼくはO B Aに借りていた千円を返し忘れたことに気付き、O B Aは謎に駅を一周した。4年間、制作が続いていたことを感じてふたりとも呆然としていたのだと思う。
「ドキュメンタリーを公にするのは難しい」と考えていたけれど、本当の公は映像にうつる人が外に自分を晒すことにあるのではなく、自分の内に公の領域をもつことにあるのかもしれない。
O B Aが映像にうつった過去の自分という他者を思い出し、歴史上の踊り手とその思考を思い出し、自分の内に居る多くの他者を認めていく。人が個から公に開いていくプロセスに、立ち合えた気がしている。

〈第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸 了〉
 
 
『人はなぜ踊るのか』
協力:信陽堂、小町谷健彦
舞踏撮影:内山直樹、関強、竹岡寛俊
音楽:宗田悠
マスク:勝見淳平
制作:出演者の方々、O B A、松井至
 
 
 
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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