草日誌

草日誌

2023年3月18日

人に潜る 第2話
近くて遠い海へ|いわき ①

 
 
 
 

もうどんな映像も見たくない。
真っ昼間から寝室に横たわって天井を見上げる。
いつもならなにかしら惹きつけられる人やテーマが浮かんで間断なく制作がはじまるのだが、ずっとなにも見当たらない。心の中を空き地にしたまま、ただ時間が過ぎるのにまかせていた。

2022年5月、完成までに7年を要した映画の公開を機に制作漬けの日々がふと途切れ、苦手だった人前で話すことに慣れはじめるとこれまで経験してきたことが言語化されていった。ひとつの物語を口にすると、口にした物語だけが「あったこと」になっていく。見聞きした世界について伝えようと語気を強めるたびに言葉の尖端で分別がはじまり、淡い記憶の広がりがまるでなかったことにされて体から消えていくようだった。それが嫌で、言語の網では掬いきれない事物がうつる映像を選んだのに、撮影に際してさえも目の前の世界にありのままであってほしいと願いながらカメラを取り出してその場を変容させてしまう。そしてなにかしらのテーマに向かって取捨選択をはじめてしまうのだ。
そういう矛盾に疲れていた。

カメラの発明以前、その名がつく前の映像はいったいどこにあったのだろう。映像として外在化されるまでの〈それ〉はなんだったのか。映像の前駆体である〈それ〉を感じたかった。そうでないと制作が嘘になってしまう気がした。死を目前にして見るといわれる走馬灯、あるいは胡蝶の夢のように全人生のイメージのスライドショーが全身を駆け巡る瞬間があると信じられてきたことはひとつの興味深い手がかりに思えた。死のほど近くから生のあらゆる場面を振り返る。〈それ〉を見ることができたなら、〈それ〉は一人一人の人生が異なるのとおなじように異なり、〈それ〉は一人一人の人生がさほど変わらない普遍性を持つことをも示しているはずだ。

見たい映像が浮かんできた。
もし世界中の人々が、その生を振り返る場に立ち合えたら、その心の奥深くにある原初の風景にまで遡る垂直のまなざしを共に見ることができたら、なにも言葉にせずとも身体が経験した膨大な時間を凝縮した遺言のような映像がそこにはあるのかもしれない。誰かに伝えようとする目的もなく、この時代にここに生まれてこんな人を生きたという遺言。個の内なる時間の総体を映像にうつすことはできないか。そこまでいけば、この地上はどんな場所なのか、生きているとはどういうことなのか、垣間見えるだろうか。

10月。カメラと三脚を背負って福島県のいわき駅に立っていた。
誰の遺言を撮りたいか、これまで出会ってきた人を思い出して、真っ先に顔が浮かんだ方と待ち合わせた。
駅前のデッキを見回すと手摺に肘をかけて市内を眺める後ろ姿があり、丸太のように分厚くてすばしこい筋肉の張った腿を見て、底曳の漁師の体はこうだったなと思い出す。自分の方が背も高く肩幅もあるのに、その使い込まれた柔らかい掌と握手すると、彼の方がひとまわりもふたまわりも大きく感じられて、掌に包み込まれた自分がまだ子供のように思える。

「あれからもう何年になっけか?」
「7、8年ですかね? 俺もおっさんになりました。」

ひとしきり挨拶を交わして、駅前の居酒屋に入る。

「んで、何を撮影すんの。」
「何も決めてないです。話しながら思い浮かんだことを撮っていけたらなって。」
「いいけど、俺は遺言を映像にして残すような大した人間ではないよ。だから別にあんたが撮りたいっていうなら断る理由もない。」

運ばれてきたビールを空にしながら、この席で自分から原発事故の話をするのは無しにしようと決めた。この11年と半年、新妻竹彦さん(61)がメディアから繰り返し受けてきた質問は容易に想像ができた。
「目の前の海が放射性物質で汚染されました。漁師としてどんな想いですか?」
時期によって原発事故の海洋汚染問題の焦点は変わるが、大方この質問のバリエーションだろう。
自分もしたからよくわかる。

2014年、僕はいわきの漁業についての番組を制作した。ADの時期に終わりがきて、ディレクターとして一本立ちする初仕事だった。番組の部署に行くと企画のメモ書きが3つほどあるうちのいわきの漁業に引き付けられた。当時、福島の海についてはっきりと科学的根拠を持って述べるだけの情報があるのか未知数だったし、何をどう信じればいいのかわからなかった。海の汚染は甚大だという論調もあれば、すぐに希釈されたという説もあり、そのどれもがなんらかの情報操作の疑いからまぬがれないように思えた。なんにせよ無知な自分がこの渦中に触れるのは無理筋だと頭ではわかりながらも妙な興奮状態でリサーチする中、YouTubeにアップされた漁師のインタビューに手が止まった。

2011/10/28
「確率的殺人に加担したくない」

少なくとも確率的殺人というところの加害者には俺はなりたくないし、その確率的殺人の中に自分の身内なり、愛している人なり、想う人が含まれることに対して、絶対嫌だ。俺は。どんなことがあっても。その確率がそれこそ神様だけしかわかんないわけだから。それに対して、少なくともそういうリスクがあるんであれば、そのリスクがないようになるまで、俺らが、俺ら漁民が我慢して、福島の漁民が我慢していれば、それでもって北海道や沖縄の船方、漁師たちもそれで持って生活ができるわけだから。俺らが(海に)出ることによってどんなになるかって言ったらもう、その辺の秩序がなくなっちゃって、ひどい状態になっちゃうと取り返しがつかない。

サングラスに黒いジャージ姿の新妻さんだった。
企画が通るとすぐに会いに行った。久之浜の漁港近くのなだらかな丘の中腹にある家の居間で時間を忘れて話した。
米の全量検査はできたが魚の全量検査はなぜ技術的に困難なのか、競い合うように魚を獲っていた日々が原発事故でピタリと止まって増えてきた魚をどうするのか、出漁日や収穫量を制限する試験操業を続けた先にどんな漁業の形があるのか、網の形を変えることで資源管理漁業を始めることはできないか、水俣はどんなふうに再生に向かい、福島では何ができるのか……。
喫緊の問題に応じようとする新妻さんの思考は血肉を帯びていて、時代の危機的状況の当該地から一人の人物が覚醒するところに立ち合っていると感じた。
結局、番組で新妻さんのシーンは放送できなかった。彼と作ったシーンを残したいという僕の意志に対してテレビ局は「個人の際立った考えを地上波で流すと、地域を代表する考えとして視聴者に伝わってしまう。それは地域や彼にとって良いことではない」と判断した。
当時の自分は、テーマを描くために個の言葉を断片的にかき集める番組制作の一般的な方法に対して別の形をしめすことができなかった。個はテーマの破片ではないし、テーマの破片を集めれば全体ができるわけでもないという単純なことを理解するまでに多くの人の多くの時間と言葉を、ただもらうばかりだった。

ビールが次々と空になる。

――新妻さんの家にお邪魔したとき、海がすぐ近くにあったのを覚えていて。やっぱり子供の頃は海が遊び場だったんですか?

子供の頃住んでいた俺んちは海の真ん前、サンダルひっかけてサッと歩けば砂浜ってとこにあった。浜に行けばいつでも誰か友達がいて、遊んでた。同級生もみんな漁師の子だったり、魚屋の子だったり、大人たちは皆、海に関する仕事してたよ。昔、メロウドって魚(小女子の成魚)が大漁だった時期があって、そん時なんか町中活気付いてたよね。大漁だと子供から老人まで働きに出て、子供はこづかいもらって駄菓子屋で使って、大人たちは宴会する。町の中だけで経済が回ってっていう典型的な漁村。クジラが浜に上がって陸の生き物たちが潤うのと一緒だな。

――お父さんも漁師でしたよね。

親父も、じっちも…こっちではじいちゃんのことじっちって言うんだけど、じっちも、じっちの親父も漁師。だから自分も漁師になるんだってあたりまえに思ってた。

――だと、子供の頃はじっちとお父さんが漁をしているのを見てた。

見てたって言っても船に乗るわけでもねえから。ただじっちは陸に上がってくると猫みたいなおとなしい人で普段はあんまり喋らないんだけど、大酒飲みで酒飲むと大変だった。「おめえのとこのじいさんは太平洋の水くらい酒呑んだっぺ」って近所に言われるくらいの人だから。お使い頼まれて近所の酒屋に秤売りの酒買いに行くんだけど、子供の頃にさ。嫌じゃない。酔っ払いの加担をしているような感じでさ。帰り道でわざと酒瓶振り回して、泡立てて笑。こんなことやりやがって、ってじっちに怒られたりしてたな。
そんでもじっちは海に出ると磯(海底の岩場)のことが何でもわかる人だった。陸で花が咲くと、どこそこの磯にあの魚が来るってことが全部わかってて、「おめえのとこのじいさんは磯のこと座布団一枚の大きさまでわかってた」って周りの漁師たちから尊敬されてた。

――達人ですね。磯のことがわかるっていうのが当時の漁師としては重要なことだったんですか?

だって手漕ぎ船の時代に用意ドンで沖に出て、その日どこにいくかで大漁か全く獲れないか決まんだもん。広い海の中で魚が居っとこなんてほんのわずかだし、当時はGPSも魚群探知機もねえからね。じっちは沖から山だとか村の灯りを見て、海のどこに居んだか正確にわかる人だった。俺にはとてもできねえ。俺なんかどっちかっていうとデジタル人間だから。じっちみたいに身ひとつで漁ができる、ああいう人のことを漁師っていうんだろうな。

新妻さんの陽に焼けた丸い顔がいつになくほころんで、少し濡れた目が笑うとなくなる。何度も会ってきたはずなのにこの人とはじめて会っている気がする。なぜこれまでこんなふうにあたりまえに話せなかったのだろうと考えたが、2014年に原発事故以外の話をすることは無理だったと思いなおす。あの時は緊張を解いて何かたわいもないことを口にしたら底知れない巨大な不安の方に傾斜していくような恐怖がいつも隣にあった。

いまだに汚染水のことやってるよ。
あの当時、漁業組合で「下手すれば10年かかるかもしんないよ」なんて話してたけど、ほんとに10年経っちゃった。正直ここまで長くなっとは思わなかった。悶々、悶々考えてた時、ノートに大きく「水」って書いたことあって、なんかの直感だったんだと今になって思う。

原発事故についての話はそれきりだった。
「なあんか、じっちの話ばっかしたな」と笑いながら店を出る新妻さんに「じっちのこと、撮りましょう」と伝えて別れた。
 
 
 

人に潜る|近くて遠い海へ|いわき ②(4月1日更新)につづく

|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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