草日誌

草日誌

2024年8月17日

人に潜る 第8話
田んぼに還る|西会津 ④

【 生きている者たち 】

撮影をはじめた日は、お盆の墓参りだった。
炎天下の朝に老人がひとり国道を歩いてきて小径に入る。挨拶をして話を聞く。彼が自分の家の墓に手を合わせてから線香をあげ、それからいくつもの墓石の前に次々と出向いて、そこでも手を合わせて線香をあげる。聞けば自分にはよくわからないが先祖が世話になった人々への挨拶で「恩を忘れるな」と親に言われた記憶があるという。機械で切り出された新しい墓を前に彼は「昔は土葬だったんです」と続けた。今みたいに小さな敷地に個人の墓石が建っているってのではなかったんです。埋まってっとこの土がこんもりした山になって並んでるだけで。だから個人の墓ってのが無くて、集落の墓だったんです。集落の先祖がみな眠ってるのがお墓だった。死んだらそこにいくことが決まってましたから……。最後に苔むした無縁仏に手を合わせると、墓の出入口のところどころ掘り起こされて穴だらけになった地面を見やって「こりゃ猪の仕業だ」とつぶやき、老人は去った。
蝉の鳴き声と青空を撮った。



夜には奥川地区の盆踊りがあった。
廃校の校庭にやぐらが立ち、色とりどりの提灯が夜闇に揺れた。地元の方がテントを張って出店の準備をしているところだったので、カメラを置いて焼きそばに青海苔をかけるのを手伝う。綿飴やかき氷、焼き鳥などはどれも百円やそんな値段で、大人たちにはお酒が、子どもたちにはくじ引きや玩具が用意されていた。自分たちの楽しみを自分たちで作る。それが楽しくて仕方がないという表情から、コロナ明け3年ぶりのこの日をどれほど心待ちにしてきたかが伝わってきた。お盆だから帰省してきた若い親子がひっきりなしにやってくるのもあって、賑やかだ。
民謡「会津磐梯山」が鳴ると、人々がやぐらの周りで輪になって盆踊りをはじめた。
校庭の土の上に、人型の影が長く伸びる。
帰省中の家族、移住してきた若い夫婦、地域振興に携わる人たち……。ロングショットを撮ろうと校庭を出て、国道まで来て振り返る。あたりはもう真っ暗で、やぐらのまわりだけ明るかった。500人ほどの奥川地区で100人以上が視界に入っているのかと思う。


踊る人を撮った後、地面を向いて人型の影ばかり撮った。
影を見ていると、それが男なのか女なのか、若いのか年老いているのか、集落の者か外から来た者か、わからなくなった。影はあらゆる情報を取り除いて、ただいまここに生きている者たちがいるということだけを知らせていた。
踊ることで祖霊を供養する。地面を踏み鳴らし、死者と共に踊り、霊魂を鎮めてあの世へと送り返す。盆踊りの起源を思い起こしながら、連なる影と影とがすこし離れ過ぎている気がしてきた。どんなに唄や笛や太鼓の音が昂揚しても、その距離は埋まらなかった。腕や頭の影がひときわ長く伸びて、やぐらの光の届かない闇夜に溶けていく。闇の中には膨大な数の死者がいて、その闇に四方八方を囲まれながら生きている者たちは踊る。
ふと、死者に対して生きている者が足りないという感覚に襲われたがすぐにそう考えるのをやめた。ここに暮らして、ここを去る人を見送った人でなければ、口にできないことがある。


輪から離れて踊りを眺める齢85くらいのおばあさんたちが、嬉しそうにかき氷をほおばっていた。背後に回ってレンズを向けると、ふたりの背中は少女に見えた。彼女たちの瞼の裏にはかつてここに4000の人が暮らしていたころの活況が焼き付いているのかもしれなかった。

今から移動販売いくけど。来る?

奥川唯一の売店、福島屋に顔を出すと店長に誘われた。
食料を積んだまっ白い移動販売車が晴天の奥川地区を駆け抜ける。
その後ろ姿を撮影しながら追いかける。集落の家並みを通り抜ける。見事な茅葺きの屋根の家が目に入る。よく見ると軒のところが斜めに傾いている。誰も住んではいないのだろう。この頃、恒平とよく空き家について話していた。誰も住まなくなった家があっという間にボロボロになる理由について、カビの繁殖だとする仮説があると恒平が言う。人が入らなくなった家は空気が停滞し、光が差し込まず、朽ちた木や紙(つまりは植物)にカビが繁殖して、家を分解して土に還す作業をはじめるのだという。だから空き家は腐っていく食べ物に似て萎むように崩れるのだと。

移動販売車が、大きな茅葺き屋根にトタンを被せた古民家の庭先に着くと、店長は軒下に野菜や肉、お惣菜を並べはじめた。

今日はマグロあるよ。

刺身あんだか!
ありがてえ。俺んとこ今日、客があんのよ。

いつものも並べといたよ。

フライドチキン。これ、うめえんだ。

ああ、ありがとう。やっぱモノは見て買わねえとな。

俺は足がろくでもねえから、ありがてえ。

運転免許を返納した高齢のおばあちゃんは、この移動販売車で1週間分の食料を買うという。福島家に直接電話をして個別に欲しいものを伝えることもあるので、店長はみなの好物を熟知していた。

一銭も金がねえ!

いいって、いいって。ツケとくよ。

郵便局で金を下ろすのをうっかり忘れるとツケになるらしい。店長の手元の小さな帳簿には名前と金額がずらりと並んでいた。

見回りも兼ねてっからね、来なかったら電話かけるし。なんかあったら怖いし。ガソリン代差し引くと儲けはないけど、俺がやる他ないからこうするより仕方ないよね。

口数が少なくどこか飄然としている店長が、地域に複雑に編み込まれた相互扶助の一端をあたりまえに見せてくれた。


『金がねえ』って、おばあちゃんがあんな堂々と言うの、はじめてみましたね。

なんか生命力強いよな。

恒平と笑いながら奥川を走る。
 
 
【 ここで終わり 】

矢部さんたちが10年かけて地域に入りこんだことで住民の考え方に変化が生まれていた。
なかでも奥川地区の入口にある中町集落の区長をなさっている岩橋義平さん(70)はその変化を体現していた。自宅を民泊にしながら都会から来る若い人たちを受け入れ、iPadを使いこなして交流を続け、地域にもそのおもしろさを伝える。一度来た人が次の人を連れてきて、関係人口がどんどん増えていく。「若い人のエキスを吸って若返ってます!」とおっしゃる言葉どおり、一緒に居てまったく年齢を感じさせない。

よし、撮影すっぺ! やらせだ、やらせ!

義平さんの家に伺うと快活に笑いながら現れて長靴を履き、すげ笠を被り、家の前の田んぼにさあっと入っていく。遅れまいとカメラの電源を入れる。

もうちょっと水が欲しいかな。この穂の状態だと。とりあえず見て、どうなのかな、元気でいんのかなってことですよ。
わたし勤め終わって、毎日、田んぼの周りずーっと、回って歩くんですよ。土が乾いてたら湿らせておくとか。
爺ちゃんが「見肥やし」ってよく言っていました。
見ることが肥やしになるって。
肥料をだけじゃなくて、自分の目で見てどうしたらいいかっていう。その言葉がすげえ心に刺さってるっていうか。
そうすると稲が答えてくれるのかなって。

義平さんは岩橋家の15代目として農家を継いだ。陽当たりが良く開けた平地にある条件の良い田んぼを先祖が残してくれた。ここ数年はその田んぼの一部使って、都会からやってくる若い人たちと一緒に田植えをし、稲刈りをして米を作っているという。嬉しそうに畦道を歩いて案内してくれる彼の姿には不思議と暗さがない。田んぼにしても適度に草が生え、でも目が行き届いていて、家の居間の延長のような雰囲気を醸し出していた。不思議なことに先祖から手渡された財産であるという重みや、守っていくことのしんどさを感じさせない田んぼだった。義平さんだけが同年代の農家が抱えている課題から解き放たれているように思えた。この自由はどうやって獲得されたものなのか、興味が湧いた。

去年はここで350キロ獲れたんですよ。
採れた米は「自由にしてくらんしょ」ってことで。
「俺いらねえから」って。
田植え、稲刈りに来た人に分けてやったり。

わたし小さい頃は〈結〉がありました。
百姓に関しては田植え、稲刈り。労力を金で買うんじゃなくて、労力を労力で返す。お互いに協力し合う。
「おらいに手伝いきてくれ、俺も手伝い行くから」ってことで。
その日を〈大田植え〉って言うんですよ。
「あの人の田んぼは何月何日だよ」って決まっと、一挙に人が集まって、一日でほぼやっちゃうわけですよ。
「その次はどこそこの家だよ」っていう形で。
それが結の文化だった。ここでは一人では生きていけないということでしょうね。知恵ですよ。
今だんだん結ができなくなって。だから都会の人たちに来てもらうことで成り立たせる。みんな歳取って結の作業ができなくなってきてるから。どっかから人に来てもらって結という形でやってもらえれば、金銭面が発生しないんで。米を作ってもらったら、差し上げる。なんでも金で解決するんだったら、結だの未来だの言う必要ねえわけじゃないですか。金のない人は農家を止めるしかなくなっちゃうし。この新しい結が広がっていけば、農地が荒れないで美味しい米がとれる。

――あとはその若い人との交流をここの農家の人が楽しめるかっていう。

そうです。そうです。いかに楽しめるかっていう。
とにかく自分が楽しむことですよ。使命感でやったら絶対続かねえからこれは。

――ご先祖さまが残してくれた田んぼを売らないで守らなきゃっていうのはあるんですか?

ないです。
そういう使命感があっと大変なんですよ。この土地を守んなきゃなんないとか。この家を守んなきゃなんないとか。ノイローゼになりますからね。
だって守れないでしょ。
自分の身内ですら地域にいないんだから。定年退職して子どもが戻ってきたとしても、もう馴染めないでしょ。もう何十年もの都会の生活が身に染みてるわけですから。いくら自分の実家だって言っても、ここの集落の決め事だとかなんにもわかんないですから。

先祖はたぶん、わたし(子孫)が「暮らしていければいい」って思っていると思いますんで。この土地を手放そうがなんだろうが、それはそれでいいのかなというふうにわたし自身は思っています。だから若い人に来てもらって、この田んぼで米作ってもらって、それ彼らに送って、相手も嬉しい。
遊びを見出すっていうかね。

――みんな、義平さんと同じようにやれるなって思います?

思いますよ、やっぱり。だってみんな寂しいんだからやっぱり。
高齢化率がものすごく高くなってる。一人暮らしだって行くとすげえ喋りますからね。「お茶飲んでけ」って必ずですからね。変に遠慮すっことないんですよ。じゃあ、家に入って5分でも10分でも話になれば、相手の方は気が紛れるし。

――逆に言うと、そんなに寂しいのに寂しいままで居るということじゃないですか。自分の子どもとか孫には「寂しい」って言えないのかなと。

言えないと思います。
やっぱり、「帰ってこい」とも言えないし。
それは自分のわがままっていうのもあるわけですよ。子どもが「一緒に住もう」って言ったとしても「俺は生まれ育ったところ、ここがいい」って。「離れない」って。そこが根底にあっから。だから自分の息子に「帰ってこい」とか「自分のために帰ってきて」という話は無いでしょうね、やっぱり。
だから、人間はそれぞれ生きる道違うから、自分は自分の道を行けばいいっていうふうに簡単に割り切っちゃえば一番いいのかなって思いますよ。ここ(奥川)のうちは俺の代で終わりだよ、と。あなた方はあなた方で生活している場所が違うんだから、そっち(都会)でちゃんと生活しなさいよ、ということで割り切んのが一番だと思いますよ。

――でも、割り切っても集落自体は危機なわけじゃないですか。危機意識が強いから、その楽しさ(若い人と交流する)に気付けたんだと思うんですよね。「自分の代で終わりだよ」という荷物の外し方も知っている。

荷物は外さざるをえないんじゃないですかね。
だってこれ以上、もうどうしようもないでしょ?
相当変わり者の人たちはITで仕事できる環境が西会津にありますから、そうやっていく人もいんのかもしんねえけど。そうでない人たちは、生活の場をほかに求めていっても、集落が朽ちていってもしょうがねえのかなって思いますもん、やっぱり。
それは一種の諦めっていうか…
「あっここで終わりなんだな」って。
人間でいうと、これ以上延命処置をしてもいつかは亡くなんだから、それだったら早いうちに区切りをつけた方がいいんじゃねえかって思いますよ。

――消滅する手前で「どうしようどうしよう」と言うよりは、もう消滅するものだと。

消滅するものです。
だからその最後まで残った人をいかに幸せに過ごしてもらうかっていうことでしょうね。自分の家で、畳の上で、自分の生まれ育ったところで死ねるというのが一番幸せなのかなと思いますよ。
ただ、いまは若い人が都会から来てくれるんですから。縁もゆかりもないところに。それで人間がこうつながっていくわけですから。そのつながりを大事にしないと一回来て終わっちゃいますからそれではおもしろくないなと思いますよ。

――義平さんが若い頃には考えられなかったような変化ですね。

ですね。
何にもやらなくていい、このままでいいって言って、ずっとそのままで終わっか? それとも一歩踏み出して楽しく生きっか?
選択ですよ。おんなじ生きるにも。

先祖が残した土地についての義平さんの解釈は、突き抜けていた。家系を、集落を、存続させるためにあらゆる努力をすることが尊いという揺るぎない価値が急速に失効するという時代の移り変わりを経て、縁もゆかりもない都会の若い人との新しいつながりに向かってひらけていった。
帰りの車で恒平が言う。

先祖をどう解釈するかでそれが呪いになっちゃうこともあるんですよね。だからみんながみんな義平さんみたいに呪いを解けるわけではないということを忘れずにいたいですね。映像にすることで義平さんがヒーローになるような描き方をしちゃうと、それを見た人たちが「自分はそうはなれなかった」という感じ方をするほかなくなってしまうから。そうすると地域おこしにならないんです。「誰かが上手くいったから、その人をモデルにしよう」という地域おこしは実は汎用性がなくて。「自分はできない」になってしまう。だから隣の集落の人が「義平と同じようにただ楽しめばいいんだな」って思えるようなものにしましょう。

「ヒーローを作らない」という恒平の地域おこしの掟は、映像制作の危うい一面をも指摘していた。自分も含めて地方を取材するマスメディアは何度となくこれをやってきた。わかりやすく誰かをヒーローにすることで住民に過度な期待を起こし、外からの目を変えてしまい、いらぬ気苦労を負わせる。架空の物語のヒーローなら、苦しんで葛藤して最後は正義の味方になって町を救えばいいが、実際の人間社会はそのように動かない。映像の中でヒロイズムに浸っているように見えたり、地域を代表して語っているように見えたりすることは近所の誰かの反発を招く。その後始末をするのはいつも描かれた側なのだ。「テレビが去った後って地域のみなさんけっこう疲弊しちゃって大変なんですよ。描く側も大変だろうな、と思って黙ってますけど。」と恒平が付け足す。

「つぎの民話」は撮影し、編集した映像をマスメディアに納品するのではなく、ここに戻ってきて、ここの人たちと共に観る。物語が発生した場所に物語が帰ってくるのだ。「不特定大多数が見る映像だからこうなりました」という逃げ口上はできない。
上映の前の暗闇を想像する。
ひとりひとりの出演者たちは映像に自己像を揺さぶられるだろう。見ず知らずの視聴者ではなく、複雑な人間関係のある地域の人らにどう見られるか。自分の見られ方に極力変化を起こしたくない人もいるだろう。自分が出演しなくても同じ地域で暮らしてきて喜びも苦しみも共にした旧知の人が映っていたら、生半可に描いてほしくはないだろう。
では、どんな映像がありうるのか。
自分らで掲げた〈地域で撮って地域で観る〉というコンセプトが急に恐ろしくなり、「こんなことをはじめたやつは気が狂ってる」と糾弾したくなったりした。たくさんの視線に貫かれて体中に穴が空く日が着々と迫ってくるような、はじめて経験する恐怖だった。でも、それをしにここまでやってきたこともわかっていた。
集落のヒトたちの民話を映し出すことができるだろうか。
上映の日、プロジェクターの放つ光とそのまわりの闇の中にすっかり消えてしまえたら、映像と共に風景になって消えてしまえたら、西会津の人たちの声が歌のように響くだろうか。
 
 
〈第8話|田んぼに還る|西会津 ⑤ につづく〉
 
 
 
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編中編後編
|第8話|田んぼに還る|西会津|

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

Facebook Twitter google+ はてなブックマーク LINE
← 前の記事高山なおみさん
〈小さなマーケットとお話会〉
次の記事 →人に潜る 第8話
田んぼに還る|西会津 ⑤

関連記事