草日誌

草日誌

2024年9月14日

人に潜る 第8話
田んぼに還る|西会津 ⑥

【 田んぼのある風景 】

その日は予定がなかったので山奥に車を走らせた。
奥川の人から話を聞いていたが、その集落は他とは全く雰囲気が違った。まず田んぼがなかった。家の造りが簡素で建具やトタンも古く、昭和から変わっていないようだった。宿だという家の表に看板がかけてあり「大阪」と書いてあった。かつては売店や小学校もあったというがとても想像できないほどに草に覆われ荒廃して見えた。弥平四郎というその集落は山々を移動しながら木の器を作って生計を立てていた木地師きじしの集団が、熊のなどを薬として売ることを認められ定住したことからはじまったという。以前、木地師たちが山での拠点を作るために生木を組み上げて葉っぱで屋根を覆い、あっという間に大きな作業小屋を建てる記録映画を見たことがあったが、移動と狩猟採集をその生活基盤にしていたことをはじめて知った。どこにも田んぼのない集落の風景に寂しさを感じた。

以前は猟銃の達人がいたが、もう銃はやめた。
弥平四郎の人が作った肉汁は格別に美味かった。
ナメコは一回り大きくて他所と違った。
明らかに顔の系統が異なっていた。
山の上に住んでいて同じ人間ではないように言われていた。
物々交換以外では他の集落と交流がなかった。

そんな話だった。

山道を走りながら、ふと谷側の木の枝の揺れが妙だと思うと黒い影が走った。子どもの猿を背負った大きな親猿のシルエットだった。
「あっ、いた! 」思わずそう叫んで車を停めたと同時に猿たちが次々と飛び出して来て車の前を猛スピードで駆け抜ける。十数頭の群れだった。その中の一頭が、道の真ん中に立ち止まってこちらを振り向いた。目が合うと全身の毛を逆立てた獰猛な殺気を浴びせられた。妙に疲弊して宿に帰って、長い昼寝をした。

矢部さんがこんな地図(奥川中ノ沢自治区)を見せてくれた。
昭和初期ごろの農地は緑で、現在の耕作放棄地となった部分は赤で示されている。中山間地域という環境もあり自給自足の暮らしに必要な農地が広範囲に及んでいたことがわかる。人々は斜面のわずかな土地も開墾して田畑にしていた。そうした生活が経済成長によって主流ではなくなり、田畑を維持管理することができず、耕作放棄地となっていった。また以前のように林業や炭焼きや狩猟採集などで山を歩く人が少なくなったことも相まって、人間の縄張りが山から里へと縮小した分、抑え込んでいた動物たちが縄張りを広げて農作物を狙いにくる。彼らにとって耕作放棄地は絶好の隠れ家となる。
中山間地域の農家たちは人と動物の均衡が崩れて攻防が激化した世界を生きている。

米農家、キツいっすけどね。

電柵で数十万かかって、米が売れてもギリギリ赤出ねえくらいで。
こんなとこ、作ってらんないっすけどね。
めちゃめちゃ効率悪いんで。

狭い山道をハイエースでガンガン乗り回す運転技術、短く整えた眉、左耳の小さなピアス、小柄で筋肉質な体、瞳の輝き……そのヤンキー的な印象を先回りするように坂井康司さん(33)は、「よくやんちゃだったかと思われるんですけど、俺、こう見えて真面目でしたから」と笑う。
イノシシ除けの電柵をまたぎ越して、田んぼに入る。山が崩れて上流の水路が断たれ、水を入れるにも下の水路からポンプで汲み上げなければならない。出穂したばかりの青々とした稲がびっしりと雫を出し、まだ実の入り切っていない種籾の一粒一粒が一面を光らせながらわずかに震えている。毎朝この地図にも乗らないような山の中腹の小さな田んぼに水を入れに来るという。稲が穂を作るための栄養を吸い上げようとするため、出穂前は存分に水を掛ける必要がある。

高校を出て土建屋で働いていたが、父親から「農業やんのか、やんねえのか?」と聞かれて「ついにこのときが来てしまったか」と観念して跡を継いだ。

小学校くらいの頃に
ここで稲刈りをしたような記憶があって
横目に見てた黄金色の田んぼが綺麗だったなあというのが、今でも記憶にあって。
田んぼを作るようになって、そんな記憶を思い出した時に
田んぼがある風景って綺麗なんだなあという気付きがあって。

この風景守ると思えば……

田んぼ作るだけで景観守られる、
というふうに言い聞かせてるんですけどね。

全国の米農家のおよそ60%が65歳以上、35歳未満はわずか5%という歪な人口比の中、奥川でたった一人の30代の米農家の口から出た「風景」という言葉の響きで、それが喫緊の問題であることがわかる。そうであってあたりまえのように維持されていた日本の田園風景は遠くない未来、大幅に無くなるだろう。坂井さんはそんな未来が見えた後に農家を選んだ。農家は食料を作ると同時に風景を作っているヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽというあたりまえの、だが実感を伴わなかった事実が作り手の語りから直接に流れ込んできた。

はじめて奥川来た人に「ああ綺麗だな」って思ってほしいすから。
やっぱり。子どもにも「自分の育ったとこ綺麗だったんだな」って思ってほしいし。
それには田んぼがないと。
わたしにとっては田んぼあっての奥川なんで。

体が動かなくなり、耕作を放棄せざるをえない高齢者たちからの電話が彼の元に集まる。「うちの田んぼやってくんねえか?」そうやって毎年、田んぼが増える。一人でどこまでやるのか。

なんすかねえ。
もともと田んぼやれっていう運命だったんだか。
お前は田んぼやるしかねえぞっていう。
先祖、そのまた先の……天命というか。

増えていく耕作放棄地に対して坂井さんに聴こえている先祖の声が不可避で不可能な希望のように響く。
陽射しがにわかに熱を帯びて朝が終わる。
モニターの画の中で飽和した光に縁取られた彼が真っ黒いシルエットになっていく。
 
【 黄金の波に呑まれる 】

遠くの河原で白鷺が首を伸ばす。
田んぼの縁を一歩踏むと叢からイナゴが飛び出し、水中でゲンゴロウが土に潜る。カエルが喉を震わせる。稲の背丈に目を合わせると何十ものトンボの羽が銀色に瞬きながらせわしなく旋回していた。背の高い雑草が生い茂っているために稲もまた雑草のひとつに見える。向こう側の畔近くでクサネムがわずかに揺れたのをきっかけに稲穂がいっぺんに頭を垂れ、ざあざあざあざあと葉や籾が擦れる音の波がやってきて体を通り過ぎた。白鷺のいる河原まで吹き抜けていく。風が来て、風が止み、雲間から陽が差す。田んぼ全体が発光するかのように輝き、また翳る。空のまばたきの中に居た。
こんなものを撮影できるはずがないと思った。

頭にこびりついた田んぼのイメージを棄てる必要があった。
日本の田園風景を集めたカレンダー、駅にある観光地のポスター、SNSでシェアされる田んぼの中に建つ田舎の駅の写真、外国人向けのWEBマガジン……数多のイメージの中で圃場整備されて雑草ひとつ見当たらない端正な田んぼが映っていた。そうした縦横のグリッドに沿った均一な稲の美しさを棄てなければならない。いま目の前にあるのは、そのどの田んぼとも違うのだ。

「管理してなくて汚ない田んぼだな」ってよく言われました。

橋谷田淳さん(50)は優しい微笑を浮かべたまま、どこか他人事のように過去を語る。農薬を使わないから、草が生えているから、虫がたくさんいるから、それだけの理由で強い非難の言葉を浴びせかけられてきたことを振り返って、すこし笑った。国が無農薬を推奨する今からでは想像がつかないほど、橋谷田さんが無農薬をはじめた十数年前の風当たりは強かった。

あいつ変なことはじめたぞ。
やっちゃいけないことやってる。
草だらけにしてるし病気も出てる。
あいつ大丈夫か?
あんなんで農家やってけんのか?

陽に焼けた分厚い腕や脚がこれまでの労働の量を雄弁に物語る。誰になにを言われようがひたすら田んぼに入ってきた体をしている。
橋谷田さんから「いつでも撮りにきていいですよ」と許可をいただき、時間ができると田んぼのまわりで過ごすようになった。小さな頃、「何か見つかるかもしれない」と期待でいっぱいになりながら息を殺して茂みを覗き込んだ感覚が、そこにいるとよみがえってきた。

人間の都合で作っちゃダメですよね。
稲は植物なんで。稲が主役なんで。人間はそれを助けるだけで。
稲がしゃべってくれたらいいんですけどね。
「これ欲しい! 」とか(笑)。

よく殺菌殺虫剤というのを使うんですけど。
それは稲が病気にならないように病原菌を殺すためにするんですけど。菌を残さなければ病気にはならないという発想なんですよ。田んぼを実験室のシャーレと同じように考えてきたのが現代農業なんです。
本来は人間の腸内環境と一緒で、悪玉菌と善玉菌とのバランスがとれていて他に悪いものが入ってきても病気にならないようにする。そのバランスが一番大事で。
自然界の中で腸内環境を再現してあげる。
全てを殺しちゃ絶対ダメなんですよ。
良いものも悪いものも田んぼに置いておかなきゃならない。

田んぼについて語っているのに彼のことに聞こえ、彼自身を語っているのに田んぼのことに聞こえた。ピントを操作する左手が、橋谷田さんの顔と背後の田んぼとを行き来する。背景と人物、どちらに合わせても映像が成立した。おそらく田んぼのトロトロの土壌や多様な生態系のすべてが橋谷田さんの膨大な労働と引き換えに現れたものだった。彼と田んぼの両方が主体であり、ふたつで一人称になる。田んぼが写らなければ彼は写らない、彼が写らなければ田んぼもまた写らないという相互浸透の関係にあった。

私が小さい頃は丸い田んぼが多くて。その地域の地形に合わせて丸い田んぼが形成されて。畦道の草も機械で刈れないので、鎌で。だからある程度の長さが残っていて、そこで小さい動物たちが棲んでいて。田んぼの中も除草剤が普及していないので、手でとって。完全に労働力だったので朝から学校行く前に手伝って、学校から戻ってきて手伝って。

基盤整備が入ってガラッと田園風景が変わったんです。そうすると管理しやすくなって農薬の効きがよくなって、それこそ田んぼから草が消えたんですね。家も田んぼが近いので、工事が入ると、そこの動物が追いやられて家に来るんですよ。お風呂入っていると、排水溝から蛇が上がってきたり、蛇の居場所が無くなって入ってきたり。カエルとかもそうですけど。みんなこう家に押し寄せてきたんですよ。

イナゴ採りって子どもの仕事であったんです。
このあたりはイナゴを食用で食べていたので。それがちょうど収穫時期の田んぼで。子どもだったので、稲がこのくらいの高さなんですよ。夕陽を浴びながら風に当たるとすごくこう、なんですかね。どうしようもない力の大きさというか。本当に「呑まれる」って感じます。黄金の波に呑まれるんですよ。

古来、子どもが森や里でなんの前触れもなく忽然と姿を消してしまうことを「神隠し」と言うが、秋の黄金色の田んぼに呑み込まれた橋谷田さんにそれと似たようなことが起きたのかもしれなかった。
掌に種籾を置いて、その粒を観察する彼を撮る。
パンパンに張った粒は産毛に覆われて赤い。
稲というもっとも家畜化された植物が、彼には野生の生き物に見えている。豚が猪だったように、犬が狼だったように、稲もまた飼い慣らされる以前の野生の段階を持ち、あたりまえにそこにある田んぼが人間には窺い知れない複雑さを隠し持つ。踏み入れれば途方もなく広大な海原になる。
 
 
 
〈第8話|田んぼに還る|西会津 ⑦ につづく〉
 
 
 
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編中編後編
|第8話|田んぼに還る|西会津|

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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