2024年12月14日
カーテンを閉め切った暗い部屋に籠って一ヶ月ほど作業をしていたから、ひさしく光を浴びていなかった。部屋の空調の音、台所の換気扇の音、表通りの車の音、鳥の声……そんなふうにひとつの画の中に五つも六つも音を付け足して多重化することで、シーンに流れる空気に厚みをつけて現実に近づけようとしていた。
映像にはいつもなにか足りなかった。
ありったけの技術と思考を駆使しても、なんということもなく過ぎていく日常の五感の機微に追いつくことができない。
映画の公開が迫っていた。
依頼していた音効に逃げられて自分で音を探すことになった。とても間に合うとは思えない切迫した日程だったが、映画を撮りはじめた7年前からの映像をすべて見返して、葉の擦れる音や、遠くで車が走る音、子供たちのざわめく声を探していると他の一切のことを忘れて不思議なほど穏やかな時間に浸った。
どこかに向かう途中だったのかもう忘れてしまったが近所の公園を歩いていて、あたりが妙に眩しくて、なぜか「ずいぶん遠くまで来た」と感じた。
足元から顔を上げると見慣れた風景はなにもかもはじめて見るように鮮明になっていた。すべてのありふれた事象が剥き出しのままで飛び込んできた。
ふと小道の脇から猫が歩いてきて止まり、こちらを振り向く。
1秒、2秒、3秒……
見つめ合った残像をそこに置いて猫は去る。
その身のこなし、軽やかな動きが見たこともない文字のように見える。
猫が空気に書いた文字を目で読む。
ふと鴉の鳴き声がして上を向く。
折り重なった枝の先で無数の葉が音もなく揺れていて、その震えるような微細な動きで風の形が見える。
葉が宙に紋様を描くのを目で読む。
ふと小鳥が高所から身を丸めて落ちてくる。
地面の少し上で羽を広げてはばたき、上昇する。
小鳥が自分を包んでいる空気の弾力と遊んでいるのを目で読む。
なにもかもが存在するだけでしゃべっていた。
どの存在も在るというたったそれだけのことに命をまっとうしていた。
これまで自分は猫を前にして猫という言葉を見ていたのだと気付いた。鴉という言葉を、葉や風や小鳥という言葉を、世界を前にして世界という言葉を見ていたのだ。膨大な時間を無駄にした気がした。
あの日、深い誤解が解けた。
自分を取り囲んでいた言葉の網目から一気にこぼれ落ちた。
そこにはただ光があり他が見えることのあまりにも大きな僥倖があった。
存在はそのまま喜びだと知った。
あれが何月何日だったのか、もう思い出せない。
なんの変哲もない一日だった。
生まれてはじめて光に感謝した。
それから耳の聴こえない人たちの世界に感謝した。
存在を目で読むことを教えてくれたのは彼らだった。
映画『私だけ聴こえる』の7年の制作が終わろうとしていた。
*
2015年のある昼下がり、シャワーを浴びながら詩の数行をふと思い出して『私だけ聴こえる』の制作は始まった。
おれは三日間音を殺してみた
おれは三日間色を剥ぎとってみた
おれは三日間形を毀してみた
『おびただしい量』岡田隆彦
詩に倣って少しの間、音を殺してみる。
遠ざかる車の音、廊下を歩く足音、体から水の滴り落ちる音をひとつひとつ意識から消していく。一切の音が聴こえない状態に浸りながら目を閉じると映像が浮かんできた。
東日本大震災のすぐあと、警報と叫び声が行き交い、聴こえる人たちはみな避難して居なくなった街の一軒の家に聴こえない夫婦がいる。家具を元の位置に戻し、停電で付かなくなったテレビの線を抜き差しして生活に戻ろうとしている。彼らの住む住宅地の背後に黒い壁のような津波が音もなく近付いている。
その一枚の画が脳裏に焼き付いた。
風呂から出て、あの日、津波から生還したろう者の証言ドキュメンタリーを作ろうと思った。
どうやって津波が来ることを知ったのですか?
宮城沿岸部を歩いて、ろうの方々に尋ねた。
答えの多くは近所に住む〈耳の聴こえる子供たち〉が駆けつけたことによって一命をとりとめたというものだった。
その子供たちに話を聞く。
普段から「何かあると親が困るだろうなと思って」近くに住み、震災があった時は真っ先に駆けつけたという。自分の子供の安否を確認するよりも先に「体が勝手に動いて」実家に向かったという人もいた。
聴こえる子どもが小振りの手話のような動きで聴こえない親と話していた。目が合うと恥ずかしそうに「手話習ったことないんで、家族にだけ通じるサインなんです」と言う。世界でここにしかない言葉が目の前にあった。
津波で亡くなったろう者はあの時、どうしていたのか。
頭をよぎった疑問を捨て去れず、人づてに連絡先を入手し、津波で亡くなったろうの夫妻の息子さんに電話をかけた。
彼もまた〈耳の聴こえる子供〉だった。
私は……あの日、両親の近くにいませんでした。
普段、仙台に暮らしていますから。
なるべく早く実家に戻って、家の階段を登ると両親は手を繋いで並んで死んでいました。その後、近所の人たちの話を聞くと、どうやら何度も両親を呼びに行ってくださったようです。目の前が小学校ですから。一緒に移動していれば助かったのに、なぜか行きませんでした。手を繋いでいたので、もう生きることを諦めたのかもしれません。
聴こえないので、避難生活に耐えられないと思ったのでしょうか。
……わかりません。ずっと考えてるんですけど……わかりません。
私には両親のことが最後までわかりませんでした。
声に次第に嗚咽が混ざってきて、彼の傷口の瘡蓋をめくって血が流れ出るのを見ている気がした。
取材はここで終わった。
耳の聴こえない親と聴こえる子。
その親子は長い間ひとつの家族という親密でちいさな空間に居たはずなのに、違う星から来たかのようにかけ離れた存在に思えた。
その後、番組のレポーターをしてもらった手話通訳士のアシュリーから「コーダ=CODA(Children Of Deaf Adults)」という言葉をはじめて聞いた。
取材でろうの人たちの子供の話を聞きに行ったでしょう?
耳の聴こえる息子や娘に出会ったでしょう?
彼らはコーダっていうの。
私もコーダです。
まだ知られていない、新しい概念なのです。
コーダについて彼女は「ろうの世界と聴者の世界、ふたつ世界のあいだで育ち、居場所を失い、ストレスに苛まれる」と説明した。子どもの頃から親の会話の通訳を強いられて、誰よりも早く大人になる。聴者とろう者の間で通訳しながら、無数の差別を経験する。守れるわけでもないのに親を守ろうとする。でも自分自身も聴者でもある。こうした子ども時代を経ると、成長してからもどうしようもなく内面が不安定で、アルコールやドラッグに溺れる人も少なからずいる。コーダは世界中に点在し、自分たちが何者なのか、その定義をこれから作っていくところだ、と。そうすることによってコーダは、自分と同じ苦悩を持つ人間がいることを知り、親友を作り、恋人を作り、人生を作るのだ、と。
熱を帯びてきた彼女の話を聴きながら、あるイメージに浸っていた。
がらんとした巨大なショッピングモールで幼い自分が迷子になっている。
一人になってしまった不安に耐え切れず大声で泣き叫んでみたものの、聴こえない親には自分の声が届かない。持ちうる力を振り絞っていくら叫んでみても、親が声に気付くことは絶対にない。永遠に見つからない迷子になって、その諦めが身体中に染み渡ったあとも自分だけで過ごさなくてはならないのだ。
それは恐ろしいイメージだった。
わたしの体はあなたと同じです。
でも心の中はろう者なのです。
真っ直ぐにこちらを見ながら彼女は「コーダの映画を作ってください」と言った。
〈第8話|光を読む|映画『私だけ聴こえる』②〉につづく
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|①|②|③+映像|
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|①|②|③+映像|
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像|
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|①|②|③+映像|
|第5話|いのちの被膜|京都|①|②|③+映像|
|第6話|握手|
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編|中編|後編|
|第8話|田んぼに還る|西会津|①|②|③|④|⑤|⑥|⑦|⑧|
|第9話|光を読む|『私だけ聴こえる』|①|②|③
松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。