草日誌

草日誌

2025年3月22日

人に潜る 最終話
 想起するまなざし 

子どもの頃、真夜中に目を覚まし、暗闇で何も見えなくて腕や顔を手でまさぐってもそれが誰なのかわからないことがあった。
そんな時、急いで昨日までにあったことを思い出した。
食べものから立ち昇る湯気について。
たわいもないことで笑う顔。
血管を流れる血の音。
森の奥や海の底が怖かったこと。
転んだ道の土の匂いと膝の痛み。
そうした記憶のすべてがたしかに自分は自分の持ち主だと思い出させてくれた。
やがて満たされると「明日もなにか起こるぞ」と待ち望むような気分に包まれて眠りにつく。
思い出すことが薬になるということを子どもは自ずと知っているのだと思う。

『家は生きていく』の制作から石巻との縁が深まった。
たった15分の映像を作ったことで地元の方々が何度も上映の場を準備してくれることに驚き、あの街の高く澄んだ空をまた見たいと思うようになっていった。
それは冬のまぶしいくらい光の強い日で、新しく舗装された道のまわりには雪が積もっていた。
「石巻で観光案内らしいことを少しもしてこなかったから」と制作を共にした仲間たち(ちばさん、志村さん、鹿野くん)が〈みやぎ東日本大震災津波伝承館〉に連れていってくれた。津波と火災によって多くの人が亡くなったそこは2000世帯が暮らす住宅地だったが、今は雪で真っ白のなだらかな丘と円形の建物が立っているだけだ。
中に入ると誰かが講演をしていた。被災について研究をしている大学の先生だろうか。
急になにも見聞きしたくない気がしてきて、早足になった。壁面に大きなパネルが掛かっていて文字が目に飛び込んでくる。
東北の地図の上に死者の数。
被災時の街の白黒写真の上に
「津波は恐ろしい」
「津波はまた必ず襲ってくる」
「津波から命を守る」
それらの文字の横に「来るとは思わなかった」という証言が添えられている。
ここは警句を発するために建てられた施設のようだ。
「どちらからいらしたのですか?」と声をかけてくる人があった。
振り向くと語り部のボランティアだという初老の方が立っていた。
曖昧に返事をしてその場から逃げるように去る。

失礼だとわかってはいたが、石巻で何かを見たくなり聞きたくなる前に、見るべきものや聞くべきことを差し出されたくなかった。この社会が大きな歴史として残していくのはこうした警句であり、教訓としての語りだと理解はしたが、そのメッセージが強固で有意義であればあるほど、本来それぞれ異なる固有の経験を持つ被災者の声が、亡き人の声が聞こえなくなる気がした。
建物を出てちばさんと志村さんに話しかける。

「制作中にちばさんの家と銭湯にしか行かなくてよかったです。
 情報を入れなくてよかった。」

「そうですか? すみません、どこもご案内してなくて。」
と、二人は笑った。

あの時、ぼくは被災したままの状態のちばさんの家と向き合い、亡くなったおばあちゃんの話を聞いた。
聞いたというよりも出会った。
その衣服や生前に録音されたテープの声を手がかりにして。
生きている人に会うよりもずっと親密に。

夜になり、ライブハウス〈ラ・ストラーダ〉の階段を上がる。1年前、制作の経過発表をしたこの場所にようやく戻ってきた。
『家は生きていく』の上映後、集まった25名ほどの人たちが語り出した。石巻ではいつも語りが自然に発生した。確かなことはわからないが、ぼくはその理由について、同じ風景の中で無数の死と隣り合いながら生きることになったからだと考えていた。
その夜もあらかじめ決められていたかのように人々は全身で聴く耳になり、語り部になっていった。その声の一言一言は体温よりもわずかに熱い鮮血のようなもので出来ていた。耳から入ると手足の先まで痺れた。ある女性がたどたどしくつまずいてはまた起き上がるように語り出すと会場は海に潜るように沈黙を深めていった。

震災の後、なんかこう……自分のことをすごい研究してきたんですね。この10年間。
私は場面緘黙症という症状があって、それは苦手な場面になると話ができなかったり、体が動かなくなったりする感じだったんですけど。
それが震災の時にストンと無くなったんです。その時は何も考えてなかったんですけど、時間が経っていろんな人と関わるうちに戻ってきちゃったんです。場面緘黙症が。
それで余計に「これはなんなんだろうな」と思って。
話すことには慣れてくる。
表面的に話せるようになってはくるんだけど、なんかそれも違和感があって。
震災後にできた図書館みたいなところに関わっていたこともあって、ちょっとした義務感みたいな感じで震災の話をすることを続けているうちに説明がスラスラできるようになって。
「震災の時、どうだったんですか?」と話を振られると、「こうでした」みたいに話せるようになってきて。

それも10年もやっているとすごい違和感で。
ちょっと話せなくなってきたんですよね。
なんか……すごい……こう……表面を掬って言葉にして話しているっていう気がして。

すごく嫌だなあと思って。
そういうことじゃない気がするな……と思いながら……いたんですけど。
説明できないし……言葉もよくわからないんですけど。

結局、話すことには慣れたけど「対話ができないな」って思っていて。
「対話ってなんなんだろうな」ってずっと思っていて。

『家は生きていく』に興味を持ったのは、感覚的に思い出させてくれるような、こういうことが自分にとって大事というか。
「ああ、もう無理に話さなくていいんだ」って思えたんですね。

「もう話さなくていい」。
それを伝える係として、石巻に呼ばれたのだとようやく理解した。
わたしとあなたを言葉やフィクションで括らない方法が、名前のないものを名前のないまま共に見る方法がここには必要だった。震災を語ることが社会的意義と強く結びついて公共化する地域で暮らし、語ることに違和感を覚えながらも、社会から次々と言語化を強いられ、消耗し、ある時なにも見たくも聞きたくもなくなった自分に気が付く。
そこに映像は発生する。
他者が映し出される。
同じ地域に暮らす他者の環世界に触れて、思い出す。震災以前を思い出す。自分なのかもわからない自分以前を思い出す。
そうやって一人では決して思い出せなかった記憶を受け入れる。「私というヒトはこの地上をこんなふうに生きた」と。

真夜中に目を覚まし、暗闇で何も見えなくて腕や顔を手でまさぐってもそれが誰なのかわからない。
そんな時、急いで昨日までにあったことを思い出す。
思い出すという薬を自分に施すのだ。
それを次は自分たちに施す。
その時、映像は想起のきっかけの光を放つ。
わたしとあなたで世界を探索できるように。
私たちは誰もが聞き手であり、語り部であり、誰かのまなざしの中で発光する光だ。

つぎの民話がはじまる。

 
 
〈最終話|想起するまなざし〉了

 
 
松井至さんの連載「人に潜る」は今回をもって完結しました。
これまでご愛読いただき、ありがとうございました。
バックナンバーは 松井至|人に潜る からお読みいただけます。

2025年秋には書籍化の予定です。どうぞご期待ください。
 

 
 
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編中編後編
|第8話|田んぼに還る|西会津|
|第9話|光を読む|『私だけ聴こえる』|
|第10話|うたうかなた|前橋|
|最終話|想起するまなざし

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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『奥会津の木地師』

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