草日誌

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2024年7月20日

人に潜る 第8話
田んぼに還る|西会津 ②

【 集落のヒト 】

2022年のある日、レンタカーの中で途方に暮れていた。
「もうこれ以上は撮れない」そう思って現場を離れたのだが、運転して東京に帰る気力がなかった。撮影は頓挫した。
フロントドアを開けて、最上川の匂いと湿度に浸った。
山形県朝日町にいた。

以前、この町で番組を作ったことがあった。
人口減少の未来予想が話題となり、「地方創生」や「限界集落」という単語が一般に定着した2015年ごろのことだった。この議題をめぐる世論の中には、限界集落にコストを割くのは経済合理性がなく、数名の老人たちのために税金を使うことはやがて国家の損失につながるという論旨が一定数あり、見かけるたびに排除の仕方について話しているように思えて、いたたまれなかった。空と鳥を、水と魚を分けることができないように、土地と人との関係は命に関わる。それを描きたいと思い、一年半ほど朝日町に通った。最上川沿いにある20戸ほどの小さな集落に巡り会い、いきおい移住してきた若い人たちと集落の区長の擬似家族のような関係を撮りはじめた。

区長の家にはいつもテレビが流れていた。ただ単に音と光を出す家具としてそこにあった。彼に話しかけてもいつもテレビの方を見ながら返事をした。かといってなにかの番組を見ているわけでもなかった。感情の乗ってしまう言葉を口にするときに目を合わせたくないからだろう。ぶっきらぼうでシャイだった。だからいまも彼の横顔ばかり覚えている。

昔は人いっぺえ居たのよ

集落に250人ほどの老若男女がいた時代に生まれ育った彼は、よく賑やかだったころの話をしてくれた。遊ぶことも学ぶことも働くことも祭りもなんでも「みんなでやったんだ」と語るすぐに後に「いまはもうねえけどな」がくっついてきた。好奇心にまかせてここ70年の話を聞きながら、彼の中に時代の変遷がそっくりそのまま保存されているように思えて、それを映像に残したいと思うようになった。

撮るんなら一人で来い
何人も来られたんじゃ邪魔でしょうがねえ

撮影の許可が降りた。それまで自分でカメラを回したことはほとんどなかったので、これをきっかけに一人でロケをできるようになろうと心に決めた。いつだったか先輩のカメラマンが話していたことを思い出した。「ロケの前はいつでも肌身離さずカメラを持ち歩いて、布団に入っても一緒に寝るんだ」。カメラを握ったまま眠り、腹に当たる痛みで目覚めたりした。
実際に撮りはじめると、相手に話しかけながら撮ることができず、撮りながら相手の話を聞くこともできなかった。目は目、手は手、耳は耳、それぞれの器官に集中すると他の器官のことを忘れてしまった。集落の人は笑って話しかけてくるので、必死の形相をしていたら驚かせてしまうのではないかと、曖昧に笑いながらガタガタに揺れる映像を撮り、相手の話しを何度も反芻しながら、次の質問が思いつかないまま別れた。ディレクターとカメラマンが分業化した必然がよくわかった。
カメラを持っていると必要以上に貪欲に何もかも撮りたくなっていくことにも悩まされた。録画ボタンを押していない状態で、面白い会話や表情があると「なんで今、回していなかったんだ……」と苛まれるようになった。全てが撮れるわけではないという、当たり前のことを何度も自分に納得させようとした。それくらい撮影は楽しかった。日常では抑圧された「見る」や「聞く」を好きなだけできる自由があった。一日、撮影に没頭して疲れ切って仰向けになると自分の身体が通過した時間が、もうひとつの凝縮された時間を孕んでいるような感覚を覚えた。ぼくはこの集落で出会った人々の声や顔を集めて、なにか一個の新しい生命のようなものを育てているのだ。その声や顔の塊のようなものが形を帯びて、誰にでも見えるようになるまでぼくは働き続けなければならない。なぜかはわからないが、そういう係なのだ。

カメラというテクノロジーは、そんなふうに自分と世界との関係を変えた。
そして、出会いに恵まれ、美しい刹那がやってきても、カメラにはその1割も記録されることがないのだった。ああ、今日も撮れなかったのかと思うと、逆に清々しかった。撮った映像を見てみると、相手に愛情を持って近付き過ぎたり、立ち止まって近寄れなかったり、互いに揺れて震えている心の状態も映像にそのまま反映されることがわかった。ああしようこうしようという打算とは別に、その時すでにどの場所に立っていたかで答えは出てしまっていた。映像の良し悪しとは別に、自分という異分子が、この集落に「どんなふうに」居たのか、居ることを許されたのかが寸分の狂いもなく映ってしまっていた。映像に他者を写すことは、その他者を見聞きしている自分の知覚や動きが映像に含まれるということだった。逃げ場のないこのプロセスそのものが未来の人の目に届くことになる。これまで観てきた劇映画の台本には誰かの脳で考えられた登場人物たちの運命が書き込まれていたが、ドキュメンタリーには台本がない。出会いのひとつひとつがすでに運命の交錯であり、今いる場所がなんらかの必然をもつ舞台であり、誰しもがなにかしらの演技をしていた。カメラを持つことで、なんの合図もなく生起する場面の連続に放り込まれた。

ここにきてディレクターとカメラマンの分業が大きな間違いだと考えるようになった。このふたつの職能をひとりの身体の働きに戻す。全身を耳にして他者の語りに浸透するディレクターであると同時に絶えず変化する目となって世界に触れるカメラマンになること。そのふたつが分かち難く連動することで、現場から指示や確認の言葉がなくなり、気配を察知すると同時に録画し、刻々と変化する相手の状態や、一瞬の表情を拾うことができた。大事なのは自分が過ごした時間と培った関係がそのまま現れることだった。自分よりも上手いカメラマンはたくさんいるが、この場との関係においては誰も替わりを務めることができないという一点でぼくは下手なりにかろうじて媒介者の資格を持てると考えていた。
集落の人々がりんごを詰める作業や、百合を束ねる手、豪雪の朝の雪掻きや、暗い台所に立つ背中に吸い込まれるようにカメラを回した。
そうして集落に溶け込んだ。
集落は、ぼくが溶け込む時間を十二分に与えてくれた。

一年ほど経ったある時、変化が訪れた。
インタビューをしているのに、映像の中の彼らはあたかも独り言を呟いているかのような状態でそこに映っていた。向けられているカメラやぼくの存在は風景になっていた。どこを見るともなく、ただ自分の内から流れ出てくる語りに任せていた。
歌だと思った。
語りが純粋にその人の心身からやってくる時、溢れ出る声は歌に近づく。
ぼくが消えて、他者が歌う。
映像制作の言いようのない喜びを知った。

食ってけ
おめえの分、もう作っちまった

ロケの終わりに挨拶に伺うと夕食が並んでいたことも二度や三度ではなかった。テレビの方を向いたまま、背中で世話を焼く人だった。

あの人んとこさ行ったか?
話さ聞いてこい

そう言って集落の長老や一家言ある方々とつなげてくれた。
「昔の話を聞きにきました」と集落の一軒一軒を尋ね歩いた。
人々の記憶のあまりの鮮明さに圧倒された。
父親が退役軍人で脚が悪く働けなかったために子どもの時分から大人一人分働いていた話や、大雪の降った朝にカンジキを履いて道をつけるのが子どもの仕事だった話。東京に出稼ぎに行く東北の若者が「金の卵」ともてはやされた経済成長期の裏話にはとりわけ熱がこもった。タコ部屋に詰め込まれて散々な扱いを受けたことや、稼いだ金で農機具とバイクを買って山道でレースをしたこと、夫婦ともども金に取り憑かれてあちこちに愛人を作り崩壊した一家の話。ダム工事の時には街が労働者に溢れて映画館ができた話や最上川に掛かる吊り橋が鉄橋に代わってやっと集落も発展するかと喜んでいたら逆に集落から人が出て行ってしまった話。子どもたちが遊びの最中に矢を弾いて片目を失う事件があり、集落の中で裁判が行われた話まであった。

まるでひとつの生き物の体に血液が行き渡るのを見るかのようだ。
ここで起きた無数の逸話が枝葉を広げ、個々の情動が血肉を帯び、自然まみれの濃厚な生活が甦った。雪国の町外れの崖沿いの厳しい環境下で、人が生まれ、食べ、遊び、言葉を覚え、仕事を覚えて、成人し、恋をし、子を授かり、育て、先祖を敬い、老いて死ぬ。ひとりの人生の全部がひとつの生活共同体に包まれる。国や県といった概念的な括りよりも、数十数百の運命が喜怒哀楽を共にする集落という領域にこそ、ヒトの長大な生活史が流れていると思うようになった。

浴びるように話を聞いて外へ出ると、ぽつりぽつり民家の立ち並ぶ小径に老若男女が列になって歩く情景が浮かぶ。確かにここをこうして人が歩いていた気配がして、その足音がもうすこしで聞こえてきそうだった。
 
 
 【 綺麗さっぱり忘れてほしい 】

区長のつっけんどんな世話焼きが次第に彼の喜びでもあることに気付いていった。移住者たちが家に寄れば「ほれ、持ってけ」と自分の作った米やネギを持たせ、困り事を見抜いて「ケッ、仕方ねえ」とぼやきながら適切な誰かとつなげた。彼自身がそうであったようにこの集落には若い人を育てる力がまだあると信じることで彼はその体の内にしまい込まれ、忘れ去られていた若さが満ちてくるのを数十年ぶりに感じていたのかもしれなかった。今思うとぼくもまたその若い人の一人だった。

めずらしく彼の方から「撮りにこい」と電話があった。
車を走らせて集落の裏の山道を登り、暗い木立を抜けると、視界が一気に光でいっぱいになる。そこだけひらけた陽だまりになっている小さな斜面に出た。3、4枚の小さな棚田に背の高い稲架木を立てて、彼が稲を干していた。

ここだけは俺の小さい頃のまんまのやり方でやってんのよ。
いいべ?

あどけない顔で彼はその先祖から受け継いだ棚田を「美しい」と言った。
社会の変化から隔絶された聖域のような場所だった。

集落近くの丘でりんご農家の収穫を撮影したときのことだ。
微笑みながら小声で話す老夫婦と一本のりんごの木とを一枚のフルショットの画に収めると、二人が求めてきた幸福が写った気がした。作業が終わり、軽トラで集落に戻る道すがら、がさついた大きな声が男の喉から押し出されてきた。

どうなんだべか?
この村、無くなんだべか?

しどろもどろに答えながらカメラの電源を入れたが、起動する頃には男は穏やかな老人に戻っていた。
あの声は一体どこの誰に向けて発せられたのか。

軽トラを降りて老夫婦と別れると、なんとはなしに眺めていた集落の風景から人間の痕跡が消えていく予感がした。綺麗すぎるくらいよく手入れされた木や道や庭や田畑が、逆に猛烈な心細さを生じさせた。ここが在ること自体が誰からも忘れられるのだ。2040年までに全国の市町村の半分が消滅する可能性があるという説が目の前で現実味を帯びてきていた。

あれからもう8年が経っていた。

集落の状況は変わった。
区長が息子のように可愛がっていた移住者たちは他所に移住し、息抜きの場所だったパチンコ屋が潰れ、まわりの仲間は病気で入院していた。
それでも再会の夜を盛大に祝った。刺身を食べ、彼の好きなアサヒビールを飲む。眠る前、撮影についてあらためて伝えた。彼がどのようにこの集落で生きたか、内面に流れる時間を凝縮した映像を残したい。
あいかわらずテレビの方を見ながら彼はつぶやいた。

こんな情けねえ人生、映像に残したくねえ。
一人でネギ農家やってきていろんな蓄積もあっけど、誰も継がねえ。
全部終わりよ。
先祖の守ってきた山の棚田あっぺした。あれだって赤字こいて守ってきたのよ。もう金も尽きた。農機具が壊れたら終わりよ。
夜に目え覚めて、情けねくて涙が出っ時ある。
誰にも思い出してほしくねえ。
死んだら綺麗さっぱり忘れてほしい。

次の朝、撮影をはじめたがとても続けられなかった。カメラを覗き込み、そこに撮影を拒む人がいるのは耐え難い。見ることで他者という自然を阻害している嫌な感触がいつまでも残る。諦めて納屋に行くと彼の育てたネギが転がっていた。外光の反射を受けて白く艶やかに光り、若い肌のように美しかった。
それだけが写った。

甘かった。
「ケッ、仕方ねえ」とぼやいて撮影がはじまると思っていた。
今はもう、語ることそのものが恥辱なのかもしれなかった。
にぎやかな集落に生まれ育ち、人が去っていくのを見送りながら齢を重ね、消滅の兆しの中で老いていく彼の内の逼迫を想像できない自分にうんざりした。
どうしたらそれを想像できただろう。
   
 
〈第8話|田んぼに還る|西会津 ③ につづく〉
 
 
 
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編中編後編
|第8話|田んぼに還る|西会津|

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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