草日誌

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2024年11月23日

人に潜る 第8話
田んぼに還る|西会津 ⑧

【 民 話 】

朝から晩まで映像を見て眠る。夢の中に画がやってきて、音が鳴り、声が聞こえる。目が覚めると編集台でそれを実行する。夢でつないで現実で後を追う。物語を造形するのは映像の中の他者たちなのか、彼らを読み取ろうとする自分なのか、わからない。そのうち夢を見なくなり作業の終わりがくる。

上映会の朝、新幹線に乗ろうとして震えがきた。
これから数時間後には西会津の人達が映像を見る。
ほんの少しでもぼくの認識が間違っていれば、地域の誰かにとって今日という日は悪夢になるかもしれない。不安がそれを上回る量の覚悟を迫る。

秋の終わりの雪が降り出しそうな白い空だった。奥川の廃校の教室にプロジェクターを持ち込んで、窓に暗幕を張り、没入できる空間を作った。奥川地区の全戸にチラシを配布したのが功を奏したのか、次々と人が集まる。農作業帰りらしく軽トラから老夫婦が降りて野良着で会場に入っていく。
これまでやったどんな上映もこれほど生活の場に近付いたことはなかった。来場者数は奥川地区の人口およそ520人の内の130人ほどに達した。
「混んでんなあ! 奥川が東京みてえだ!」と誰かが笑った。

落ち着かなくて何度もプロジェクターの光を見上げた。
暗い教室の宙空を走る光の束の中に埃が舞うのを見ていると気がまぎれた。
この光の束に半年分の時間を凝縮した。
映像そのものを物理的に確認することはできないと思っていたが、この時はじめて自分はただ光を作ったのだという自覚が湧いてきた。うまくいけば一時だけ光の向こう側へと観る人をつなげることができるだろう。終われば人は日常の光に戻る。それだけだ。そう割り切ることができたはずなのに投影がはじまると人を映し出すことへの畏れと喜びが猛烈な勢いで自分の内を駆け巡った。



ひとつの光を見て、語りの声が皮膚に染み渡り、隣の人の体温と溶け合ってひとつながりになっていく。同じ光を見ることは同じ釜の飯を食うのと似て、経験をともにした者同士に帰属意識をもたらす。
映像の中の人々を通して、もう一度、見慣れた風景と出会い直す。
生活そのものが現在進行形の民話であることに気付く。

上映が終わると同時に自分の役目は終わった。
いつもなら劇場から出て帰路に着くだけだが、ここから先が「つぎの民話」でやりたいことだった。恒平が来場者に呼びかけ、グループに分かれてもらう。

思い出したことをなんでも話してください。
それと、この映画を誰に観させたいか、
プロデューサーになって考えてみてくれませんか。

そうお願いするとみなが一斉に口を開いて大騒ぎになった。
あるおじいさんは自分が小さな頃に見たという金色のイナゴの話をしはじめた。80代のおばあさんの「俺んとこも田んぼ頑張んなきゃ!」と言う声があがる。「西会津には諦めない人がいるってことだな」と腕組みをして考え込む人や「あの中町(義平さんのいる)の結のやり方をうちの集落でもやってみっぺ」という会話もあった。「西会津だけど描かれていることは全国の地方で起きていることなので、同じ課題を持っている地域の人に見てほしい」と町内の人が言うと「自分の住んでいる地域でも同じことが起きているから今すぐにでも上映してみたい」とたまたま来ていた町外の方が言う。「映画にあったように若い人が来るから新しい宿を作ることに力を入れてほしい」と西会津町の町長が奥川の人から嘆願されている場面もあった。米粒のアップに感動したという人がたくさんいたのは意外な驚きだった。「びっくりした! 米ってあんなに綺麗なんだな! 毎日のように触ってっけど普段はじっと見たりしねえから!」何十年も米を作り続け、掌で確かめてきた人たちが米の映像を見て感動するとは思わなかった。高解像度のカメラテクノロジーで写された産毛で覆われて赤っぽい米粒が画面いっぱいに揺れる。その数秒は奥川の人があたりまえに過ごしている日常に隠れた宝石があることをそっと告げたのかもしれない。

映画についての話ではなく、自分たちの地域について、地域のこれからについて、話したいことが溢れる場になったことがなにより嬉しかった。
恒平の提案で、奥川地域づくり協議会と西会津国際芸術村とに上映権を分与することとなった。奥川の人たちが好きな時に好きなようにこれらの映画を人に観せることができるようにした。
次からは住民が上映の主催をする。西会津内の上映はすべて無料だ。町外の上映は一回5万円に設定し、つぎの民話チームが上映をしたら奥川地域づくり協議会にも収入が入り、協議会が上映をしたらつぎの民話にも収入が入る仕組みとした。同じ課題を持つ全国の地域からの上映依頼を受け付け、上映を出会いの機会にしてほしかった。

義平さんと作った一本を『奥川・未来のゆい』、
橋谷田さんと坂井さんら米農家たちと作った一本を『田んぼに還る』、
そう名付けて手渡した。

ここまでの風景は僕には見えていました。
ここから先はわかりません。

恒平が言った。
上映の緊張で疲れ切っていて、目の前で起きていることもなんだかわからない。頭を冷やそうとざわめく教室から出て校庭を歩くと矢部さんが煙草を吸っていた。

ここの人たちがこんな集まることって敬老会以外ないですよ。
すごかった。こんなことは初めてかもしれない。

「田んぼやめたら奥川に居られない」
康司くんが言っていたあの言葉、わかるんですよ。
俺も何度ここを出たいと思ったか。
「川を憎んでも仕方ない」もそうです。
先祖もみんなそうやってここで生きてきたから。
圧倒的な自然を前に人は、最後は祈ることしかできないのかもしれないですね。

今日の上映は民話でした。
民話も人間の内の自然だと思いました。

話し終える頃には教室から降りてきた住民たちが矢部さんに次々に声をかけて感謝を述べながら帰っていった。矢部さんの背中を追いかけて教室に戻りながら、彼が戻ってきたこの十数年、奥川でどれだけの人がどれだけの変化をしたか、それを計量する方法は無いだろうと考えていた。

最初に会った日の夜だったと思う。
なぜこの福島の山奥の小さな集落に帰ってきたのかを尋ねると、矢部さんは近所の名物じいさんのモノマネをしてぼくらを大笑いさせた後、

この素朴な世界が無くなって欲しくないんですよね。

と付け加えた。
この時もそうだったが、矢部さんは目の前に人がいるのに独り言を呟いているように見えることがあった。おそらく誰も彼の話を聞いていなかったとしても彼は精確な言葉を使ってまるでどこかに自分の考えを登録するかのように小声で最後まで話すのだろう。そうやっていつも自分を含むもっと大きな時空間について確かめているようだった。

撮影を通して、奥川でたくさん人に会うことになった。
不思議だったのは、どこの誰かもわからない上にカメラを持ってうろついているぼくのような人間に対して、会う人会う人、心を開いてくれるのにそう時間はかからなかったことだ。普段見知らぬ土地に入っていく時間や労力を考えると、驚くほどスムーズだった。
みな、他者と出会うことに慣れていて前向きだった。
そしてみな、自分の語りの準備ができていた。
それは誰かがここに人流を作り、新しい縁を呼び込んできたことの証だった。そして誰かが全身でこの人たちの語りを聴いてきたことの成果だった。
年齢を超え、性別を超え、どこから来たかも超えて、語りを聴き、共に笑い、共に困難を乗り越えることでこの素朴な世界を守ろうとした矢部さんたちの痕跡を、ぼくは奥川の端々に確かめた。地表からは見えないところでミミズが土を耕すように、住民ひとりひとりとのやりとりの機微に地域の内面を耕す。そういう名前のつかない、何十年かかるかわからない途方もない仕事に彼らはとりかかっていた。

最初の上映からもう一年が経つ。
あれからいまに至るまで西会津町内のあちこちで「つぎの民話」の上映会が続いている。運転免許証を返納した高齢者たちが集落の公民館で、移住者たちが都市からの客を招いた居間のテレビで、高校の先生が道徳の授業で、有志のクラブで、役所の人が同僚と共に…上映回数はおそらく100を超えた。
想像もつかなかった光景が広がっている。
映像がこの土地に関わる人たちの血肉になっている。
比喩でなく映像の光が焚き火の光と重なる風景を目の当たりにしているのかもしれない。

写真提供:荒海正人(奥川地域づくり協議会)、井森屋

映像の功罪についてずっと反芻していた。
それが流布したことで世界中の無数の集落がその独自の民話や歌や踊りを失う一因となったという考えは大小の差はあっても事実を含んでいると思えた。
映像は都市を拠点としたマスメディアで生産され発信され続けることで地方の村に生きる人たちに、都市は便利で美しく、正しく、ドラマチックで出来事に溢れていると疑いなく信じ込ませると同時に民話を語る口を塞がせるだけの輝きを放った。
いま世界人口の半分以上が都市に住んでいる。
たった60年ほどの前に白黒テレビが普及し、道路と車が発達し、金が無ければならないという考えが社会を席巻し、故郷を去った者は都市に家を建て、集落は限界を迎えた。

誰もこんなんなっつまうどは、
村が滅ぶとは夢にも思わねがった。

奥川の80〜90代の方々から、この言葉を何度も聞いた。
そして故郷を去った世代を親に持つ80年代生まれの自分のようなヒトは生まれ育った土地と自分とを結びつける方法がそもそもわからない。
その生き物としての欠乏感から、ぼくは思い出す必要があった。
空と鳥を、水と魚を分けることができないように、ヒトと土地との結びつきは命に関わるということを。
民話はこれらを結びつける臍の緒、言い換えればちゅうたいだったのだ。
ひとりの物語を集落の物語に、ひとりの記憶を先祖の記憶に、ひとりの身体を共同体に、ひとりの生活を風景に、ひとりの生と死を無数に繰り返されてきた生と死に、ひとりの心とそれを生きさせたあらゆる自然とを結びつける見えない紐帯だった。
そしてここから見上げる星のひとつひとつが過去からやってくる光であるように、この地球にヒトと自然が形成した集落のひとつひとつが過去からやってくる光であるように、民話に映し出された人々もまた未来に向けて発光する光になろうとしていた。

 
〈第8話|田んぼに還る|了〉
 
 
 
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編中編後編
|第8話|田んぼに還る|西会津|

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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