2023年9月16日
どこにでもある⽇常のありふれた場⾯に、長く悩まされてきた問いが溶解した⽇のことを思い出す。
娘のスイミングスクールに付き添ったときだった。
⾒ていてね
そう⾔われて蒸し暑い観覧席からプールサイドを⾒おろすと、⾚い⽔泳帽の娘と⽬が合った。彼⼥は⼝を動かしてぼくになにか話しかけているのだけれど、⽔と戯れる⼦どもたちの⾦切り声や先⽣の張り上げる声が室内に何重にも⽊霊していて、聞きとれない。
あきらめたのかジェスチャーをはじめた。⽔を指差して膝を曲げ、⽔⾯を模した⼿を顎のあたりに⽌めた。
ここまで潜ってみるね
そう理解して、ぼくは平らにした⼿を⿐の下まで上げる。
ここまで潜ってみたら?
⻑年、⽔を恐怖していた娘がおそるおそるプールに潜っていく。
いい感じ! その調⼦!
頭のてっぺんまで潜れるようになった頃に授業が終わり、娘の⽬とぼくの⽬との間は不思議な一体感で満たされた。
「⾒て!」「⾒て!」「⾒て!」
(Look at me! Look at me! Look at me!)
⼦どもの⼩さな⼝から何百何千回と発せられるこの短い⾔葉はどこからどんなわけでやってくるのか、⼦どもはなぜまなざしを欲しがるのか、わからなかった。「⼦どもは」という括りを外して、「⼈は」と⾔い換えてもよいほどにこの問いは⼤きく、それがいかなる形に姿を変えたとしても、私たちがその存在の根本において他者のまなざしを切望しているのはなぜなのか。
この時やってきた考えはこうだった。
植物が光を栄養にするように⼈はまなざしを栄養にする。
逆の場合について、つまり他者と触れ合う機会を徹底的に奪われた⼈がどうなるのかを知ったばかりだった。2005年、フロリダの⼀軒の荒れ果てた家に警官が捜査に⼊り、寝室を開けて嘔吐した。7歳のダニエルは暗い⼩部屋に閉じ込められて糞尿にまみれ、必要な⾷事を与えられる以外はスキンシップを受けることも⼈と会話することも屋外に出たこともなかった。体は⼩さく、⾔葉はまったく話せなかった。警官に会った時には、まるで相⼿を素通りしてその向こうを眺めているかのようだったという。
まなざしには⽣きるのに必要不可⽋な養分が含まれている。
だが映像制作者がカメラを持って対象を〈⾒る〉ことは、常に狩猟のイメージと結び付けられてきた。〈撮影〉はハンターが狙いを定めて獣を撃つ=Shooting であり、〈撮る〉ことは〈盗る〉ことも含まれる=take であり、ドキュメンタリー制作は〈⾒る〉という暴⼒を⾏使するかのような負のイメージを持つ。しかし、⾒ることと⾒られることの⼤きな円環の中に、撮ることと撮られることの円環も含まれるとすれば、映像制作はその暴⼒性に偏らず、他者が⽣きるための養分を送ることもできるのかもしれない。家族写真がそうであったように誰かのまなざしが⾃分に注がれ、⾃分のまなざしが誰かに注がれてゆくことが映像の本来の在り⽅ではないか。
まなざしは⾃他を育てる。
それを映像の持ち物ととらえてもよいと思えた。
まるで先祖の⽣きた時代をいま⾒てきたかのような源兵衛さんの語りに⼊ったためか、レンズの前の⼦ども服は⺟のまなざしがそのまま物質化したような何かに変わりつつあった。
⼦どもで死ぬ。お⺟さんも⼀緒に死ぬ。お⺟さんだけ死ぬ。⼦どもだけ死ぬ。そういうことが珍しいことやなかったんやで。出産が命がけやった。
だからその命が儚い。命が短い。
今⽇、⼣⽅どうなるかわからんっていう時代やんか。
そやけど、それが逆に時間も空気も全部、濃くするわけやろ。乏しい布をね。そんなもん着るもんが何枚もあらへんやで。親も。その時に⼦どもに着せるもんをええかげんなもん着せるか?
霊魂のごとき⼦ども、というものを、どれを⾒ても感じるね。
真っ暗な部屋に⼊って、⼩さな肌着のような⽩装束のような⾐を撮影した。息を⽌めて、その布が⾃分を包む⾚い膜のようなものに⾒えてくるまで撮ると、その場に倒れ込んで⽬を閉じた。撮影の終わりが来た。
まあ⾔うたら 蚕でいう繭やんか。
包まれてるわけやん。
胎内で。
それはもう思いっきり胎児を護ってるわけや。
胞⾐で包まれてて、それからまた包まれる。
そういうもん作るわけでしょ?
⾐ではないんよ、被膜なんよ。
もう家系という括りが大きな意味を持たない時代であっても、先祖の魂はそれを感じようとする者の元にモノを通ってやってくるのかもしれない。〈自分〉があるかないかの現象となり、衣が衣ではなく被膜となって、母と子の、見るものと見られるものの初源の円環に向かう。はかり知れないほど遠くから続いてきたまなざしの連鎖に自分もまたつらなっていくようだった。
〈第5話|いのちの被膜|京都 了〉
本編をご覧になりたい方は、【こちら】のメールアドレスから松井にご連絡ください。
協力:稲本智、今井芽、松井由記
制作:山口源兵衛、松井至
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|①|②|③+映像|
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|①|②|③+映像|
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像|
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|①|②|③+映像|
|第5話|いのちの被膜|京都|①|②|③+映像|
|第6話|握手|
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編|中編|後編|
|第8話|田んぼに還る|西会津|①|②|③|④|⑤|⑥|⑦|⑧|
松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。