草日誌

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2024年7月6日

人に潜る 第8話
田んぼに還る|西会津 ①

【 焚き火の上の動く画 】

ある夜を境に映像が流布する以前の世界を想像するようになった。

2017年、ウガンダ北部をジープで走っていた。
郊外の集落まで、少年兵だった青年に会いに通う。長く続いた内戦で地獄を通過した子どもたちは深い傷痕を抱えたまま生活に戻ろうとしていて、ぼくはその日々を撮る。警戒で血走った彼の顔がだんだんとほどけてきて、その下からあどけない笑顔が現れた。最後の日、年に一度のハレの日しか食べないという鶏を彼が潰してくれた。後にも先にもあんなに美味いスープを口にしたことはない。

その集落にはたった2軒の家しかなかった。
家と家の間の広い空き地には数えきれないほどの子どもたちが走り回り、女たちは井戸端会議に夢中で、男たちは木陰に寝そべっていた。

陽が落ちると焚き火が灯った。
パチパチと木の爆ぜる音がすると寝ていた男がいつのまにか椅子に座っており、火の前に顔を突き出して語りはじめた。
その声は大きくはないがよく通った。男の語る神話の中で双子の動物が川や谷や山を歩く場面に差し掛かると、そこにいる全員が同じ川や谷や山を思い浮かべているということがなぜだかわかるのだった。
火は次第に大きくなる。
声の抑揚に乗って流れ出た情動が皮膚に染み渡る。時折、笑いが起こり、どよめき、しんと静まり返る。隣の人の体温と溶け合ってひとつながりになっていく。気を抜くと眠ってしまいそうだった。

レンズの先に恍惚とした顔の子どもたちがいる。眠る老婆、思い詰めた若い男、赤子を抱く母がいる。闇の中の無数の瞳はどれも焚き火の少し上の中空を見つめている。

そこにはなにもなかった。

いつのまにか100を超える人影が光のまわりに集い、全身を耳にして次の言葉を待ち詫びていた。人が増えるほど静寂は分厚くなる。
ひとつの語りが終わると同時につぎの語りがはじまる。
入れ替わり立ち替わり、男たちは語り部になった。自分という楽器から鳴り響く音を熟知しているかのように声を出し、声によって世界の源泉からその秘密を汲みあげていくようだった。

人々は一心に焚き火の少し上の中空を見つめている。
夜の闇をスクリーンにして、自分たちの眼の中からひとつの「動く画」を生み出しているのだ。
映像の発明以前、テクノロジーが何ひとつなかったころ、ヒトの内にそれらはあった。
眼はカメラであり、動く画を映すプロジェクターでもあり、映像という現象の全貌は私たちの内に起きていて、いまだ外在化され尽くされていない何かなのかもしれなかった。

このときやってきた考えは精神の奥深くに沈んで、ぼくの一部になった。
ヒトがその歴史のはじまりから誰しも聴く耳であり語り部であったのだとしたら、失われたあの焚き火の場をもう一度作りたい。
その光にとって替わったもうひとつの光である映像によって。
 
 
〈第8話|田んぼに還る|西会津 ② につづく〉
 
 
 
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編中編後編
|第8話|田んぼに還る|西会津|

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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葉月の落語会
「明烏」ほか

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