草日誌

草日誌

2024年8月3日

人に潜る 第8話
田んぼに還る|西会津 ③

【 映像の地産地消 】

あいかわらず葛藤してますね。

事の顛末を話すと佐藤恒平(39)はそう言って笑った。

区長は最近、移住者もいなくなってたまたま負けが込んでいただけですよ。至さんが全然仕事うまくいってなくて、もっと落ち込んでいたら力になってくれたと思いますよ。困ってる若者に自分が頼られたら「仕方ねえな」と言えるけど、自分が負けが込んでる時に、いま精力的に活動している至さんから「撮りたい」って言われても頷けないっていうところじゃないですかね。

恒平はぼくにとって「地方の先生」だった。
過疎の町で育った経験から田舎の窮屈さやしがらみを内側から知っていて、ぼくが地方に抱きがちな理想論をいつも打ち砕いてくれた。たとえば「田舎の人は優しい」という都会で作られたイメージがあるとすると、「それを否定するわけじゃないんですけど」と前提を置いてから、「田舎の人は自分よりも困っている人を助けるという良識はあるけれども、自分よりも上手くいっている人に対する我の張り合いもあるし、なんでも手に入る都会ではなく田舎の困難の中で生きてきたプライドがあるんです」というように一枚づつ襞をめくるように地方への橋渡しをしてくれた。
はじめて知り合った学生の頃、恒平は謎の人だった。
幻の生物・ツチノコを食品トレーに詰めて売っていたり、魔女の格好をして沼で写真を撮ったりしていた。30歳を過ぎて再会すると世間の注目を集める地域振興の若手のプレイヤーになっていた。自らデザインしたゆるキャラ・桃色ウサヒ(圧倒的に無個性なウサギ)の着ぐるみを身につけて朝日町のあちこちに出没し、町民に演出を委ねることで町の活性化につながるアイデアを引き出したり、古民家をゲストハウスに改装して、そこを不登校の子に第三の場所として開放したり、町の中学校の中に「スキマクラス2.5組」というオフィスを構えて多忙な先生たちのサポートをしたりと、既存の仕組みの隙間に入り込んで少しだけ常識をズラし、悲観的になりがちな地方の問題に新しい見方をもたらす才能を発揮していた。

たまにはぼくとも遊んでくださいね。

ふと彼となら地方の実相に触れる仕事ができる予感がした。一人ではたどり着けないところに行って、一人では見られない光景を見たかった。

誘いに応じた恒平と東京で会うと、5時間の面接がはじまった。
ぼくは映像業界の状況や制作についての考えを詳細に聞き出され、彼は新品のスケッチブックにメモをとっていく。

ぼくはこんなことを話した。
これまで映像の多くは不特定大多数に向けて作られてきた。その光を映画館の暗闇で見た時代があり、街頭テレビに釘付けになった時代があり、家族の集まるお茶の間で団らんの中心にあった時代があり、いまはネットを介して個人のデバイスで観るものになった。
シネマトグラフの発明をはじまりとすると、映像はいま130歳弱くらい。誰もがその誕生を讃えるけど、ウガンダで焚き火を経験してから映像の誕生の裏側で失われたものを知りたいと思うようになった。映像以前のヒトが誰しも焚き火を前に語り部であり、聴く耳であったのだとしたら、それは「自分たち自身を物語る」という文化的遺伝子の受け渡しが行われていたんじゃないか。日本の地方の集落にも同じことが言えて、ある時期に自分たち自身の物語を語る場を失ったんじゃないか。ラジオとかテレビを作っている都会から語られる物語の方が自分たちのそれよりも感動的で、笑えて、華やかで、美しくて、正しくて……。それらがとめどなく量産されて流れ込んでくるのを経験して、だんだんと自分たちのことを語らなくなっていったんじゃなかったか。地方に生きる自分たちの物語には価値がないとどこかで思わされたんじゃないかと思うんだよね。
「だから映像に罪がある」とかナイーブなことを言いたいわけではなくて、映像というテクノロジーをようやく個人が0から10まで使いこなせる時代に入った今だからこそ、映像を鏡みたいに使うことができる。地方で自分たち自身の生きる姿を映し出して、それをみなで観ることからまた焚き火のような語りの場を作ることもできると思う。そういうのやってみたいんだけど、どうかな。

話し終えた頃には地域振興とドキュメンタリーの接点をつかみ出していた。

至さんの言うようにドキュメンタリーが中央メディアから発信する方向だけでなく、人が自分たちを語ったり観たりする焚き火のようなものとして機能するとすれば、地域づくりのワークショップが長年陥っていたジレンマを解消できる可能性があります。
よく「住民主体で」とか「住民の声」と言うのですが、同じ地域でも当然ひとりひとり考えは違っていて、そもそも自分の住んでいる地域がどういう場所で、どんな人がどんな活動をしているのかの前提が共有されていないことが実は多いのです。
そこでまず地域で作った映像を上映し、自分たち自身の現在を観てから地域のこれからを話し合えたら、これまで引き出すことが難しかった自発性が生まれるかもしれない。
これは至さんがプライドの高い作家でありたいわけではないことを前提に確認しておきたいのですが、ドキュメンタリー作品を作ることが最優先事項ではなくて、あくまでも地域で話し合う場を作るために映像を最大活用するということでいいですか?

それでいい、というか、そうしたいと答えた。
二人の接点からシンプルな方針を割り出す。
〈地域で撮り、地域で観る〉こと。
「映像の地産地消ですね」と恒平は言い直していた。
彼が営業・企画・運転手・プロデュースを担い、ぼくは映像制作にまつわる全てを担当することになった。
プロジェクト名は〈つぎの民話〉にした。
私たちがいま生きていること自体が未来から見れば民話になる。語ることが止まったならまたはじめればいいし、妖怪が出てきたり動物に騙されたりしなくても2023年の日々の中にだって逸話は無数にある。

しばらくして恒平から連絡が入った。

福島の西会津に国際芸術村という施設があって、地域振興の界隈で注目される場所です。つぎの民話と相性がいいはずです。ここからはぼくの仕事なんで待っていてください。

誰と誰をどう引き合わせて何を生み出すかという方程式が彼の中ですでに組み上がっているらしかった。地域振興のプロたちが未知の仕事を創出する力とスピードは驚くべきものだった。恒平がいくつかの重要な交渉と現地への挨拶を迅速に終え、西会津側が制作予算を捻出するための助成金を獲得した。

「一刻も早く地域でなにかを起こさねば」という切迫を感じた。
 
 
【 惑星としての集落 】

これが西会津全体の地図ね。
面積の84パーセントが森林で、人口は5300人くらい。
4つの地区に分かれていて、北側が私たちの活動の中心の奥川地区。
一番人口の多かった1950年代には奥川だけで4000人くらい居たんだけど、いまは520人くらい。
そのうち50歳以下の人口が30人しかいなくて、あとみんなおじいちゃんとおばあちゃん。70代でも「若い」と言われる状況なのさ。

道の駅で待ち合わせた西会津国際芸術村の山口佳織さんが壁に貼ってある地図を指差しながら淀みなく説明してくれている間、いつからかすっと背後に立っていたのが代表の矢部佳宏さん(46)だった。それだけのことで彼がどんなふうに地域と関わってきたかわかるような物静かな佇まいをしていた。

「途中、晩御飯の買い出しをします」そう言われて、奥川地区へと向かう矢部さんの車を見失いながらも追いかけた。街灯もまばらな道でふいにヘッドライトを浴びた瓜坊が走り出し、暗い茂みに消える。小さな商店に着いたようだ。

悪いね! 開けてもらっちゃって。

いいって、いいって。

矢部さんと店長の親しげな会話があり、パッと蛍光灯がつく。積まれた野菜、銘柄の少ないタバコ棚、業務用のお菓子の袋、トレーに入った手作りのお惣菜、なめこの缶詰、漬物用のミョウバン、農作業用のフードの着いた麦わら帽、便箋や筆記具、ガムテープ、色褪せたスポーツ選手のポスター、埃を被った子どもの玩具があり、それぞれの帯びた時間が層のように累積していた。ひとつひとつが地域のひとりひとりに必要なもの、あるいは必要だったが今は無用になったもので、値札の付いた商品のはずなのに、もうすでに誰かの私物であるかのようだ。タバコひとつとってもコンビニのそれと同じ物なのに、ここにあると「あの集落のなにがしさんが三日おきに買いにくるセブンスター」になる。

なんと! 福島屋には、肉もあります!

矢部さんが冷蔵ショーケースから1パックだけ残っていた豚バラ肉のトレーを得意げに取り出したのでみなで笑ってしまった。笑いながら彼がこの消滅を予測される地域を活動の拠点としたことに圧倒されていた。
福島屋を出て、真っ暗な集落に着く。

朝になっと奥川を覆う雲海が見えっときありますよ。

矢部家の先祖がおよそ360年前に開拓したという楢山集落は標高の高い山の中腹にあった。20代の半ばでランドスケープデザイナーを志した矢部さんは自らの足元に立ち返り、楢山集落を研究対象に決めた。実家の実測調査で丸太梁にまたがって、ふと見下ろすときに「ここから落ちたら死ぬんだろうな」と感じ、自分の背後に連綿と続く18代分の先祖を振り返ったという。研究は深まり、集落をとりまく草木や動物とヒトとの関係を調べ、空気や熱やエネルギーなど目に見えないものの働きから集落を現象として捉えることで、ヒトの生活と自然との渾然一体となった循環構造を見出した。楢山集落に引き篭もって危うい精神状態の中で研究を進めるうちに「未来を見た」という。

ある晩、矢部さんたちと楢山の道に大の字に寝そべって星を見たことがあった。視界を埋め尽くしたのはこれまで星空と思っていたものではなかった。星は、早朝に草原に散らばる無数の雫に似ていた。くすんで見えるものや輝度の高いもの、黄色や青味のかかったものがあり、おびただしい光の一粒一粒の色や輝きがどれも異なっていた。見続けるうちに近い星と遠い星との間に奥行きが立ち上がり、寝転がる自分の身体もまた壮大な立体の宇宙に組み込まれていく。ひときわ明るい流線形の光源が尾を引いて流れ落ちる。
この土地に暮らした人は、こんな星空を見上げてきたのかと思う。
海や森でふと他の生物のテリトリーに入り込み、人間とは異なる時間の流れに言葉を失い、畏敬の念としかあらわしようのないものが込み上げることがあるが、星空にもまた異なる無数の時間が息づいていた。

いまUFOがやってきて「来る?」と言われたら、UFO乗りますか?

唐突に矢部さんが問いかけて、「乗るね」と山口さんが即答したのでひとしきり笑った。「俺はどうかなあ」と彼が言ったきり長い沈黙があった。
矢部さんがUFOに乗るつもりだったのか、地球に残ろうとしたのかはもう忘れてしまったが、その冗談がどこか冗談に聞こえなかったのは、カナダに留学してそのまま海外で活躍することもできた彼が楢山集落に戻った姿と重なっていたからかもしれない。
後日、彼の書いた楢山についての文章に次の一行を見つけた。

集落そのものが一つの惑星みたいだと思った

矢部さんは集落を星になぞらえていた。
楢山から見上げる星のひとつひとつが過去からやってくる光であるように、この地球にヒトと自然が形成した集落のひとつひとつが過去からやってくる光であることを矢部さんは見た。そしてそこに「未来を見た」。
 
 
 
〈第8話|田んぼに還る|西会津 ④ につづく〉
 
 
 
|人に潜る|松井至|
|第1話|家は生きていく|石巻|③+映像
|第2話|近くて遠い海へ|いわき|③+映像
|第3話|人はなぜ踊るのか|川崎市登戸+映像
|第4話|ゆびわのはなし|奈良|③+映像
|第5話|いのちの被膜|京都|③+映像
|第6話|握手
|第7話|「いのちの被膜」をめぐる対話|京都|前編中編後編
|第8話|田んぼに還る|西会津|

松井至[まついいたる]
1984年生まれ。人と世界と映像の関係を模索している。
耳の聴こえない親を持つ、聴こえる子どもたちが音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を探す映画『私だけ聴こえる』が公開され、海外の映画祭や全国40館のミニシアターで上映され反響を呼んだ。令和4年度文化庁映画賞文化記録映画大賞受賞。
誰からでも依頼を受けるドキュメンタリーの個人商店〈いまを覚える〉を開店。
日本各地の職人と自然との交わりをアニミズム的に描いた〈職人シリーズ〉を展開。
コロナ禍をきっかけに、行動を促すメディア〈ドキュミーム〉を立ち上げる。
無名の人たちが知られざる物語を語る映像祭〈ドキュメメント〉を主催。
仕事の依頼などは 【こちら】まで。

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